対岸が水墨画の遠山のように浮かび 思わず引き込まれそうに美しい 白鬚神社の鳥居

 

 さて、仲麿が船に乗ったあたりに、白鬚明神社がある。

付近は岬になっており、社にちなんで明神崎、あるいは三尾崎と呼ばれている。

社は、垂仁天皇の時の創建と伝え、猿田彦命を祀っている。社殿は湖に面したわずかな平地にある。豊臣秀頼が再建したものだという。

 ここの鳥居は湖中に建っている。

広島の厳島神社を思わせる光景である。白い湖面と青い湖西の山を背景にして建つ朱塗りの鳥居には、思わず引き込まれそうな美しさがある。神社からは対岸の奥津島山と沖ノ島が、水墨画の遠山のように浮かんで見える。不思議な景色である。大海に浮かぶ補陀落山のようで宗教的な景色である。

 湖上に漕ぎだした仲麿も、対岸の景色にわずかな希望を見いだしたのかもしれない。対岸に渡りおおせ、不破関を越えれば、わが子久須麿が国司をつとめる美濃であった。

 

 ところで、乱の時、仲麿は、錦の御旗となる淳仁天皇を都から連れだすことができなかった。代わりに塩焼王を連れだした。

 塩焼王は、天武天皇の孫であるが、757年に橘奈良麿が仲麿襲撃の陰謀をしたとき、 一味として名前のあがった王である。兄は仲麿の拷間に遇って死んだが、塩焼は積極的に加担した事実がないために許されていた。今度はよもやその仲麿に担ぎ出されるとは思わなかっただろう。が、仲麿にすれば、もはや皇族であれば誰でもよい切羽詰まったところにいた。

 仲麿は逃走の途中で塩焼王の即位を宣し、美濃、越前の兵士動員の勅命を発したが効き目はなかった。塩焼王も戦死または処刑されたものとみられる。仲麿に運命を弄ばれた王子であった。塩焼王の円墳と伝えるものが、戦場から遠くない今津町日置の酒波寺の近くにある。

 酒波(さなみ)寺は、天平13年行基が開いたとされるが、戦国の兵火で衰退した。

現在、堂宇などはとりたてるほどのこともないが、屹立する長い石段と、その上に建つ山門の情景は印象的である。

 

 ところで、仲麿の乱後の淳仁天皇であるが、乱の翌月上皇の兵数百に連行され、庭に引き据えられた。急なことで、従う侍者も数名であったという。ここで、皇位の剥奪と淡路島配流を申し渡された。後世、淳仁のことを「淡路廃帝」と呼ぶ。

 廃帝は淡路島で幽閉の日々を暮らしたが、悲劇はそれで終わらなかった。皇位を取り戻した孝謙(称徳)女帝には子がなかったから、皇嗣問題は重大であった。称徳亡き後をにらんで、有力な皇族のもとには貴族たちが水面下の運動を展開し、不穏な情勢となっていた。

 765年2月には、廃帝が淡路を脱走したという噂が都に広まり、称徳帝の神経をとがらせた。実際にはその事実はなかったのだが、もし廃帝が脱走すれば、称徳・道鏡の政権に批判的な一派がこれを擁立しないとも限らない。称徳帝は、廃帝を生かしておくつもりはなかった。10月、廃帝は脱走を企てて捕らえられ、死んだ。わなにはまった可能性もある。わずかに33歳であった。

 

 〔関連項〕

▼淳仁天皇の御陵 ⇒葛籠尾崎の周辺 参照


白鬚神社の鳥居


酒波寺