仲麿 の勢力の基盤になった近江の国、越前、そして美濃

 藤原仲麿は、745年以来近江国司であって、この交通の要地を押さえていた。

近江は、父、武智麻呂も国司に、祖父、不比等も淡海公に任じられた、ゆかりの地である。742年の紫香楽宮、759年の保良官造営は、仲麿の権力強化策とみられる。また、美濃国司、越前国司に自分の子を任じ、いわゆる「関国」へ支配の手を伸ばしてゆく。

 

 762年、浅井、高島両郡の鉄穴2カ所を仲麿に賜う、という記事がある。

鉄穴とは鉄鉱山を指すと思われる。つまり、古代国家が経営する鉱山を、仲麿の私的な財源とすることを認めた、という記事ではないだろうか。以前、森浩一氏はマキノ町内を発掘し、「北牧野製鉄遺跡」が、この鉄穴ではないかと考証している。

 仲麿は760年、太師(太政大臣)に任じられ、ここに位人臣を極めた。

しかし、その数か月後、仲麿の最大の庇護者であり、権勢の源であった光明皇太后が病没する。情勢には表面上の変化はなかったが、仲麿にとっては大きな痛手であった。

仲麿は淳仁天皇を擁しているとはいえ、大権は孝謙上皇のもとにあり、孝謙と仲麿のこれまでの良好な関係も光明皇太后あってのものだったからである。

それまで万事母の意向で動いていた孝謙上皇が、自由に大権を振るいはじめるのである。果して、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになるが、とかくの噂もあって、仲麿は天皇をして上皇に忠告をさせた。このことが上皇を立腹させることになった。

 上皇は詔を発して、「天皇と同じ宮殿に住むから、このように非礼な言葉を聞くのであろう。今後天皇は小事と祭祀を行うがよかろう。国の大事と賞罰は自分がおこなう。」と宣言した。

 危機を感じた仲麿は、自分の子3人を一挙に参議として廟堂に入れたり、畿内の兵士を集めて閲兵するなど、権力集中を画策する。こうした動きがかえって周囲の反発をかった。また、いままで仲麿の権勢下で冷や飯を食っていた中級貴族らは、仲麿失脚の機近しと考えて策を練った。  (続く)

 

 〔補注〕

▼森 浩一「滋賀県北牧野製鉄遺跡発掘調査報告」