阿育王 は死後も盛名を残したが                         小さな石塔ひとつしか 生きていた目印のない人々も大勢いる

 東近江市石塔町にあるこの寺の名は、「いしどうじ」である。

寺は布引丘陵とよばれる、なだらかな丘の上にある。入口を入るとまっすぐ長い石段が続く。石段を登らずに右手に進むと、小さな本堂があり、その手前に釈迦如来石仏があるが、お顔がなんともいえず柔和で好ましい。

 石段を登った丘の上は、広場になっている。ここには、無数の五輪塔や石仏がびっしりと並んでいる。その数にも驚かされるが、さらに目をひくのは、中央に立つ石造三重塔である。高さは7mにも及び、異国情緒ただよう巨塔である。寺では「阿育王(アショカ王)の塔」と呼び、国指定の重要文化財となっている。日本現存最古の石塔とされている。

 阿育王(アショカ王)は、インド・マウリア王朝の王で、仏法を興隆するため、八万四千の仏塔を世界にまいたといわれている。そのうちの一つが日本に飛来して土中に埋もれていた、というところからこの寺の伝承は始まる。拝観のしおりを引用しよう。

 

 ・・・然るに平安中期、比叡山の僧寂照法師、長保五年に入唐留学し、清涼山にて修行中、

日本国近江渡来山に阿育王塔の埋まれるを唐僧より聞き、手紙にてこのことを日本に知らせたり、

 三年の後播州明石の増位寺の義観僧都この手紙を入手し、早速時の帝一条天皇に奏するに、 帝このあたりを探索せしめ給ふ、

 時に野谷光盛なる武士、山頂に不思議なる塚あり、阿育王塔定めしその内ならぬと奏上するに、帝勅使平恒昌をつかわし、光盛等と共に発掘せしに、大塔出現したり。 ・・・

 

 こうして、不思議な阿育王塔が土中から発見されたという。発見した人々や帝の驚きはいかばかりであったことだろう。

 石塔寺のある蒲生は、古代に朝鮮からの渡来人が多く住んでいた所である。日本書紀の663年に、百済の遺民、佐平余目信、鬼室集斯ら男女700人を蒲生郡に住まわせた、などの記事がある。鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓は、日野町の鬼室神社に今もある。

 石塔寺の寺伝に出た渡来山(わたらいさん)というのも、渡来人の影を感じさせる。石塔寺の塔は、この蒲生郡に住んでいた彼らの手によって造られたのではないかと言われている。したがって、インドのアショカ王が造ったのでも、空を飛んで日本にやってきたのでもなさそうだが、石塔が天空を飛来したり土中から出現するというのは、ロマンあふれる話ではないか。

 

 さて、阿育王塔を囲んでいるおびただしい石塔は、名もない人々の墓標である。長い、長い間に、この蒲生野に生まれては死んでいった人達の石塔が、次第に集まってこうなった。

アショカ王は死後も盛名を残したが、小さな石塔一つしか、生きていたことの目印の無い人々も大勢いる。

 

阿育王塔

おびただしい石塔の群

ほとけ様

美しい境内