山上の建物に灯を 湖上の船に松明を灯した 華麗なる安土城

 織田信長は、近江征服を果たした後の1576年、丹羽長秀を奉行にして、岐阜に代わる本拠城の築城にとりかかった。工事の大がかりだった有り様は、「昼夜、山も谷も動くばかりに候ひき」(「信長公記」)と表現されるほどであった。

 安土山は標高199mの小山で、三方を湖水に囲まれていたから、残る南側に堀を引いて大手門を構えることで堅固な要塞となった。山頂には、五層七階の「天主」が建てられた。柱は黒漆で塗られ、最上階はことごとく金箔を貼り、また屋根には中国人一観に作らせた瓦が使われていたという。その威容は、ルイス・フロイスの書簡や、「信長公記」などの記録に記されている。

 安土城の天主については、以前、内藤昌氏が、大工中井家に伝わる「天守指図」という図面こそ安土城の図面であると推定し、復元考証を試みた。

 この内藤説は、さっそくNHK大河ドラマなどに取り上げられるなど、大きな反響を呼んだ。内藤説によると、天主の石垣が不等辺八角形であるのを調整するため、天主一階も不規則な形をしているのが目をひく。内部は三階まで吹き抜けで、空中に渡り廊下、吊り舞台を設けるなど、比類のない構造であったとされる。ただし、この「天守指図」という図面の信憑性を疑う  宮上茂隆氏からは反論がなされている。

 仮に吊り舞台などが無かったとしても、種々の文献からみて、安土城天主は華麗にして画期的な建築で、信長の天下布武の象徴として、人々の目に焼きついたことだろう。

 七月の盆に、安土では天主をはじめ山上の建物に灯明を掲げ、堀には松明をたいた船を浮かべさせたという。美しい光景だったことであろう。安土滞在中の巡察使ヴァリニアーノもこれを見物したそうである。ヴァリニアーノは、異国の魂迎えの行事をどのような感慨をもって見たのであろうか。

 安土の城山の南麓には、家臣団の屋敷、西南部には城下町が建設された。城下街では、楽市、楽座、自由通行などが定められ、 一角には修道院、神学校が建てられた。

 神学校(セミナリヨ)の跡地は分かっている。城下町が田園に還った後も、「大臼」(ダイウス、つまリゼウスのこと)「しうのみざ」(主の御座)という字名が残っていたことから分かったのである。城山を近くに望む掘割のほとりで、礎石ともみられる石がころがっている。石碑が建てられ、小公園になっている。

 

 さて、 1582年、織田信長が本能寺に倒れると、明智秀満が安土城を占拠したが、織田信雄との争奪戦のときに火が出て、城は残らず炎上した。安土の町民も、近江八幡に移住させられ、安土はもとの農村にかえっていった。

 今、安土城址への登り口は二つ。ひとつは、南側の大手門跡から摠見寺を通って二の丸、本丸へと登る道である。途中のあちこちに見える石垣は、家臣の屋敷の跡である。

 もうひとつの道は、山の南西、百々橋(どどはし)という石橋に始まる。〔注 その後、入口が閉鎖された模様。〕

 繖山も見渡せる橋で、橋の下を流れる堀割は畑の中を流れてゆき、古びた農家もある。いまは用水のようなのどかな堀割であるが、もとは安土城の堀であった。橋から急な石段を上ると、摠見寺の楼門と三重塔を経て、大手からの道と合流する。

 摠見寺は、安土築城にあたって信長が造らせた寺で、廃城後も残ったものである。三重塔は、栗東市石部の長寿寺から移されたと推定されている。 1454年建立の本瓦葺である。三重塔の少し上の平地が本堂跡で、眺望が開けている。西ノ湖の湖水に真珠養殖のための柵があるのがよく見える。

 さらに登ると、石垣で固められた、城の中心部に達する。天守台を頂点に、本丸、二の丸、台所曲輸、八角平などの曲輪であり、その正門にあたるのが黒門(跡)である。もはや一つの建物も無く、礎石の列と、散らばった瓦片に往時をしのぶだけである。この山上に、再び信長の天主を見たいと思うのは、 一人私だけではないだろう。

 

 〔補注〕

天守指図をめぐって

内藤 昌「安土城の研究」 (『国華』987・988号)

内藤 昌『安土城復元』

宮上茂隆「安土城の復元とその資料に就いて ―内藤昌氏『安土城の研究にたいする疑問」(『国華』998・999号)

宮上茂隆「安土城復元」(講談社『日本美術全集』14)


安土セミナリヨ跡

安土城址の摠見寺旧本堂跡

百々橋と 安土城の登り口

※撮影は1980年代