わが庵は都の辰巳しかぞ住む

    世をうぢ山と人はいふなり        喜撰法師

 

 私の庵室は都の辰巳(東南方向)の宇治にある。私はこのとおりの暮らしをしているのに、「宇治」は「世を憂し」に通じるので、俗世を嫌っているかのように噂になることだよ。

といって喜撰法師は笑っている。

 

 この歌をもじった狂歌があり、ある人に紹介したのだが、どこがそんなに面白いのかと言われたので、仕方がない。分かるように説明をするが、私はこれは傑作だと思っている。

 

  わが庵は都の辰巳 うまひつじ 

    さるとりいぬゐ ねうしとらう治     四方 赤良

 

「わが庵は都の辰巳」という名高い一節を聞かされ、「しか」が来ると思っていると  「うま」が来てしっかりハズされる。「たつうまひつじ」と十二支になってしまって、しかもなぜか ちゃんと五七五になっていて、いったいどこまで逸れてゆくのかと思っていると、十二支を全部言い終って、最後はピタッと宇治で決まる。「わが庵は、宇治。」という千年来の主題は揺るがない。参りました。お見事。

 

☆★☆★ 拙いブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。 ★☆☆

 

 昔、男がいた。大和国の春日山のふもと、高円(たかまと)の里の女のもとに長年通っていた。この女は春は滝に早蕨の萌え出るを愛し、秋は萩の花を袖に擦ったりして雅びに暮らしていた。

しかし、男は朝廷に勤めているうち、新しく通う女が出来て高円から足が遠のいてしまった。

女は不安に思って、

 

  高円山では 野辺の秋萩が ひっそりと

   咲いては むなしく散ってゆくのでしょうね

     見に来てくれる人もなく

 

という歌を送ったが、男は返歌もしなかった。

 

 さて、年を経て、男は都に居辛い気持ちになって、吉野へ移り住もうとした。

高円山のふもとを過ぎるとき、秋萩が朝露にしおたれている景色に、ふと、昔のいろいろが思い出されて、

 

  高円山の 野辺の秋萩よ

    散らないでおくれ

   君の形見のつもりで

   花を見ては思い出すから

 

 と歌ったが、返事をしてくれる者はいない。

草を踏み分け、衣を露にぬらして女の住み家の跡を探したがどうにも取り返しがつかなかった。

 この歌は、万葉集に笠金村の歌として出てくる。

高円山に離宮のあった志貴皇子がお亡くなりになったとき、主のない離宮に見る人もなく秋萩が咲いているのを読んだ歌だという。しかし、ある人が、本当はこういう恋の歌なのではなかろうかと語ったのを、ああ本当に、と思って書き記したものである。

 

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 むかし 男ありけり

やまとなる春日山のふもと 高円のさとの女に年ごろかよひけり

この女 春は垂水にさわらびの萌えいづるをめで 秋は萩を袖につけ いときよげにくらしけり

 されど この男 宮つかへせるうち 新たにかよふところ いできて 高円にいかずなりけり

女 こころもとなくおぼへて

 

 高円の野辺の秋萩 いたづらに

   咲きか散るらむ みる人なしに

 

と送りけれど 男 かへしもせざりけり

 

 さて 年ごろ経るほどに 都をは 住み憂くおぼへて 男 吉野にくだりけり

高円山のふもとを過ぐるおりしも 秋萩に露しげう置きたるけしきに 過ぎしことども

思ひいでて

 

  高円の野辺の秋萩 な散りそね

    君の形見に 見つつ偲はむ

 

と詠みけれど 返すものなし

草をふみわけ 衣を露にぬらして跡をとへどせむかたなし

 

 この歌 万葉集に笠金村の歌とあり

志貴の皇子の薨せたまひしとき あるじなき高円の宮居に秋萩の咲きけるを読みし歌とあり 

 されど ある人の 

まことはかかる恋の歌にやあらむと 物語りたるを

げにと心得てしるせしなり

 <萬葉集の歌に思い入れがあり、伊勢物語風のお話を作ってみました。>

(奈良県ビジターズビューローの写真を引用)

 紫蘇を散らしたご飯を「ゆかりご飯」というように、紫のことを「ゆかり」とか「ゆかりの色」と呼びますが、これは古今集にさかのぼる「紫のゆかり」というお話に由来します。今日はその話をします。

 平安京に住む人々にとって、関東は、果たして人間が住んでいるかも怪しい地の果てでした。しかも、関東平野ほど大きな平野は、西日本にはありません。
 だから、昔の都の人にとって「地平線が見える」という武蔵野(関東平野)の話は驚異だっただろうと思います。平城京の三笠山や平安京の東山のように、都の東側は常に山ですから、満月といえば山の上に上がるもので、そうした月の風情を愛でたものです。
 ところが、武蔵野はどこまでも広がる原野で、日も月も地平線から上がるといいます。なんと野蛮無風流なところだろう、というのが都人の感性でした。

 武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

 と歌でけなされました。草と日と月だけを描いた「武蔵野図屏風」と呼ぶ絵が何点か現存しています。草むらの中に月が転がっています。(なわけないだろう、田舎でも。 馬鹿にしとるんか。)

 

 しかし、けなす神あれば拾う神あり、

都にも武蔵野の良さを認める人がいました。

 紫のひともとゆえに武蔵野の草は皆がらあわれとぞ見る

 武蔵野には紫つまりムラサキという可憐な花が咲きます。
そのかわいい花が一本(ひともと)あると思えば、武蔵野はいとしく感じられ、そのゆかりで、ただの草までみんなゆかしく思えるよ、という歌です。(古今集)
 いわば、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の正反対で、これを称して「紫のゆかり」といいます。 そして、そのゆかりで、「紫」のことを「ゆかり」と読むのです。

また、光源氏が亡き母の面影を求めて、次々と紫色にちなむ女性に恋していくモチーフも「紫のゆかり」といい、紫式部の名の由来になったとも言われています。

 

ムラサキ

 

尾上 紫さん
源氏物語千年にちなんで京都嵐山電鉄に走った「紫のゆかりちゃん号」

 

 

 

 

 

 

 

  四方より花吹き入れて鳰のうみ   芭蕉

 

 目の前の桜並木から、湖面にはらはらと花が散っている。

思えば、近江の国中の桜が、琵琶湖に花を四方から吹き入れているのだろうね。

 

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  さざなみの志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな   読み人知らず

 

 さざなみの志賀にあったという天智天皇の大津京は跡形もしれないが、この長等山の山桜だけは、昔ながらの風情が感じられる、という歌意。「薩摩守」で知られる平忠度が都落ちするとき、藤原俊成に託した自作の歌の一つ。俊成が千載和歌集を編纂したとき、この歌を採ったが、平家が朝敵となったことを憚って、あえて作者不明とした逸話が平家物語にある。


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[堅田の天然図画亭にて]

      景々の春色みづから画図に入るが如し

    から崎に 我もかすみの一つ哉        一茶

 

 招かれて訪れた居初家のこの天然図画亭は、春色が美しく、まるで自分も絵の中にいるかのようだ、という主人への挨拶句だと思います。

 絵の画題がのどかな南湖、堅田浮御堂から唐崎の松の春望、そこにかかる春霞だとしたら、自分もそのひとつかな、と楽しんでいるようです。

 

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  命ふたつ 中に生きたる桜かな    芭蕉

 

 服部土芳は、伊賀上野の人。まだ子供のころ、芭蕉と知り合いであった。

芭蕉が江戸に出、俳諧で名をあげてからは会う機会もなく、20年が経っていた。

土芳は、芭蕉が大津に来ていると聞き、会いに行ったが、すでに江戸に向かって旅立っていた。土芳は追いかけ、水口宿で追いつき、桜の木のもとで運命的な再開をした。

向き合って立つ二人、満開の桜が音もなくはらはらと散っている。

桜は、いま確かに生きている二人の生命である。そしてまた、別々の土地で重ねてきた、それぞれの歳月の象徴でもある。よくぞ生きて再び逢えたという感慨、そして会いに来てくれたこの若者に対し、

  命二つ 中に生きたる桜かな

と詠んだという。

服部氏はこのあと、藩士の身分を捨てて芭蕉の門人となった。

 

 

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  梅若菜丸子の宿のとろろ汁    芭蕉

 

 駿河の丸子(鞠子)宿には、名物のとろろ汁の茶屋があった。広重の東海道五十三次の絵にも描かれた店が、なんと現存するそうである。この句は、大津を出発して江戸に向かう弟子、河合乙州に芭蕉が贈ったはなむけの句。道中、丸子の宿のとろろ汁はおいしいぞ、ってね。

 

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    行く春を 近江の人と 惜しみけり  芭 蕉

 

 夢うつつのような近江の春望を芭蕉はこよなく愛した。近江には、江左尚白、三上千那、森川許六、竹内成秀ら、風雅を愛し、文学を語る友人たちがいた。

「行く春」の句は、彼らへの共感とともに、近江の春色へのこよなき愛惜であって、「近江」でなければこの句は成立しない。

向井去来が喝破したように、丹波や武蔵に置き換えたのでは、雅趣が失われ、句として成り立たないのである。

 

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   唐崎の松は花より朧にて      芭蕉

 

 古来、歌枕として知られてきた唐崎の松を詠んでいる。湖水が霞んでいるのであろうか、唐崎の松は桜の花よりも朧に浮かんでいる。

 「にて」で何かに続くような余情感。「かな」のような切れ字を使わなかった作意を問われた芭蕉が、いや、深い意図はない、思ったままを詠んだだけだと言ったやり取りが記録されている。

 

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  五月雨に隠れぬものや瀬田の橋   芭蕉

 

ああ、名高い瀬田の唐橋はどっしりとして、五月雨にも煙ぶらずに見えていることよ。

 

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  海は晴れて比叡降り残す五月かな   芭蕉

 

 琵琶湖は晴れ上がったが、比叡山のあたりだけ五月雨が降り残るように煙っている、という素敵な眺望句。

 

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  まづ頼む椎の木もあり夏木立   芭蕉

 

 芭蕉は石山寺の近くの山の中に庵を結んだ。夏木立の中、ここでの暮らしの拠り所になりそうな椎の大樹を見つけて安心した、というところか。

 

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  湖や暑さを惜しむ雲の峰   芭蕉

 

 雲の峰とは、入道雲のことでしょうね。日が落ちてきて、琵琶湖には涼しい風も吹くようになったが、湖の向こう側には、さっきまでの暑さの名残に、入道雲がそびえているよ。

 

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  草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな   芭蕉

 

 一瞬、草の葉から落ちたように見えた蛍が飛び上がったな、という小さな命のもつ躍動感を歌った。大津の瀬田川は、蛍の名所のようで、芭蕉も蛍見の句をいくつも残している。ほかに、蛍見の酒を船頭まで飲んでしまって操船が頼りないという「蛍見や船頭酔ふておぼつかな」という句も。

 

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  世の夏や湖水に浮かむ波の上   芭蕉

 

 大津にある知人の家に招かれたときの挨拶句だという。世間はうだるような夏ですが、このお宅は、あたかも湖水の波に浮かんでいるかのような涼しさですね。いやあ、私もそんな家があったら住んでみたい。

 

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 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声   芭蕉

 

 大津の幻住庵で蝉しぐれを詠んだといわれる句。

声を限りに鳴いている蝉の声。しかし、鳴き終わると、寿命が尽きて死んでしまうのだ。命の力強さと、相反するはかなさ、寂しさを共に詠みこんでいる。

 

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  阿耨多羅三藐三菩提の仏たち 我が立つ杣に冥加あらせ給へ   最澄

 

 青年最澄の歌である。アノクタラサンミャクサボジというサンスクリット語をそのまま取り込みながら、決して技巧的ではなく、まっすぐな、素直な歌になっている。出来はじめたばかりの寺と、自らの信じる教義を背景にすっくと立つ最澄の姿が見えるようである。

 

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  三井寺の門たたかばや今日の月   芭蕉

 

 大津の義仲庵で月見の宴をした芭蕉。謡曲「三井寺」に因む三井寺に行って、今日の名月を教えてあげたい。それほどの名月だ。

 月夜に寺の門をたたく、というのは推敲の語源となった詩人、賈島の詩「僧は敲く月下の門」を踏まえ、情景を重ね合わせている。

 

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  鎖開けて月差し入れよ浮御堂    芭蕉

 

 芭蕉は友人たちと堅田で月見をし、興が乗って船で湖上に漕ぎ出した。月は対岸の鏡山にかかる。月と鏡という美しい取り合わせに芭蕉は感興を覚え、 一夜、文人酔客たちと杯を傾けたのだった。 1691年8月16夜のことである。

 

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  朝茶のむ僧しづかなり菊の花    芭蕉

 

 朝の勤行が終わったのでしょう。寺の僧が茶を喫している。「しづかなり」という一語から、清廉な僧の暮らしがしのばれ、それは菊の花にオーバーラップしていく。かつて一休宗純も修行したといわれる禅寺、堅田の祥瑞寺で芭蕉が詠んだ句。

 

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  比良三上雪さしわたせ鷺の橋    芭蕉

 

 浮御堂に立つと、 一面に琵琶湖が広がって見えるが、その西にそびえるのが雪化粧した比良の山々であり、東にそびえるのが三上山である。この句は、群れ飛ぶ鷺が、比良から三上まで橋のようにさし渡すさまを詠み眺望の広さを感じさせる句である。
 

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  猪もともに吹かるる野分かな     芭蕉

 

 大津の幻住庵で詠んだと言われる。村人から、猪が畑を荒らして困るという話を聞いた夜、激しい嵐になった。この激しい野分(台風)では、猪もきっと吹かれてぶるぶる耐えているのだろうよ。

 

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   はがれたる身には砧のひゞき哉    芭蕉

 芭蕉は近江の日野の辺りで追いはぎに遭い、身ぐるみ剥がれたことがあった。

そんな姿で人里までたどり着くと、里人が砧を打つ音が響いてきて、ひとしお肌寒さが感じられるという句。

 

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   近江の湖は湖ならず 天台薬師の池ぞかし    梁塵秘抄より

 

~近江の湖(うみ)こと琵琶湖は、ただの湖ではありませんぞ。薬師如来の瑠璃光浄土にある池なのですぞ~

 延暦寺は薬師如来など3体を本尊とし、とくに中世、近江の国中に影響力を及ぼし、近江は天台王国の観を呈した。それを端的に歌った今様として興味深い。

 

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  石山の石にたばしる霰かな   芭蕉

 

 石山寺の白い奇岩霊石に、白い霰が降っては跳ね、降っては跳ね、飛び散っている。まるでその場に居るように、色も音も伝わってくる。


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  石山の石より白し秋の風    芭蕉

 

 日本も中国ほどではないが、陰陽五行説の洗礼を受けた。五行でいえば、春は青く(青春)、夏は赤く(朱夏)、秋は白く(北原白秋)、冬は玄い(玄冬)のだ。だから、石山寺の霊石が白いのも、秋の風が白いのも、文化人として常識だった。

 

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  病雁の夜寒に落ちて旅寝かな


 芭蕉は堅田で病に伏した。しんしんと寒い夜に、雁の群れが飛んでいく音がするが、一羽、病のためにはぐれて落ちた雁が居るようで、仲間に向かって鳴く声が哀れである。わが身を重ね合わせた句。


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  後の世の便りの端と思ひしに 世渡り僧となるが悲しき

 

 来世のために出家したのに、気が付けば坊さん稼業が板に付いて、極楽往生する気配もなくしっかり生きているのが皮肉だなあ。恵心僧都の母の歌をもじったと思われる大津絵の画賛のひとつ。

 

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  かくれけり師走の湖のかいつぶり   芭蕉

 

 琵琶湖の水面に浮いていたカイツブリ(鳰)が、いきなり潜って姿を消したよ。

カイツブリは鳰(にお)とも呼んで滋賀県の鳥。「鳰の湖」(におのうみ)という別名もある琵琶湖こそ、県鳥所在地ですね。

 

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  人に家を買わせて我は年忘れ   芭蕉

 

 弟子の河合乙州が大津に新居を買い、さっそく芭蕉を招待してくれた。芭蕉はわが家のようにゆったりとくつろいで年忘れを楽しんでいる。人に家を買わせて、と歌ったところが芭蕉の遊び心。

 

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  大津絵の筆の初めは何ほとけ   芭蕉

 

  大津絵の絵師が、新年最初に描くのはどの仏画でしょうかね。釈迦かな。観音かな。いっそ阿弥陀で決めるのか。

 

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  年のうちに春は来にけり 一年を去年とや言はむ 今年とや言はむ   在原元方

 

 古くは立春から一年が始まると言われた。旧暦では、立春と元旦はおおむね同じ頃

だが、12月中に立春が来る年もあった(年内立春)。振り返った1年を今年と呼んでいいのか、去年というべきか?。そんなことで貴族が悩んで古今集の冒頭に載せるんだから、コロナ禍と違って平安時代なんですね。

 

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  袖ひちて結びし水の凍れるを今日立つ春の風や溶くらむ  紀貫之

 

 あの夏の日、君は袖までびしょ濡れにして両手で水をすくってはしゃいでいたね。

季節は移り、あの川の水も僕たちのようにすっかり凍ってしまった。

けれど今日は立春。今日から吹く春の風は、氷を溶かしてくれるのだろうか、もう一度。

   (青春を懐かしんで意訳しました。)

 

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  戸を開けば西に山あり

   伊吹といふ

  花にもよらず月にもよらず

   ただこれ孤山の徳あり

 

そのままよ 月も頼まじ 伊吹山    芭蕉

 

 宿の戸を開くと、山がある。伊吹というらしい。芭蕉はうなった。

この山はそのままで美しい。取り合わせに花も名月もいらない。

芭蕉は「ただこれ孤山の徳あり」と注記した。独立峰の品格を感じたのだ。

 

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   かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを   実方朝臣

 

 掛詞や縁語を使った技巧的な一首。艾で知られる霊峰伊吹山を歌に取り込んでいる。

こんなにもあなたを慕っていること、どうして口に出して言えるでしょうか。伊吹山の差し艾のようにこんなにも燃える思いを、あなたは御存じないのでしょうね。

 

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  恋ひ恋ひて夜は逢ふみの朝妻に君も渚といふはまことか   藤原為恵

 近江の朝妻の港、男女が一夜かりそめの契りを交わすというその朝妻の渚で、
夜には逢った君が朝にはもはや居ないというのはまことだろうか。


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  散り残る紅葉は殊にいとおしき秋の名残はこればかりとぞ

 

 彦根竜潭寺に残っている石田三成の歌。

全盛を過ぎ、散っていく山々の紅葉。その中に、わずかに彩りを残す一枝の美しさ、誇らしさ。

 これは、関が原合戦に際して詠んだというが、滅びを予感しながら、うろたえも逃げもしない。大義のため堂々と胸を張っている姿が目に浮かぶ。石田三成という人物の誇りと潔さは、こんなところにも滲み出ているようである。

 

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  月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人のこころにぞすむ

 

 月の光が届かない里がないように、阿弥陀様の慈悲の心は、すべての人々にもれなく注がれている。しかし、月を見上げた人だけがその澄んだ光に気づくように、阿弥陀様の慈悲に気づくかどうか、心に仏さまが住むかどうかはその人しだい。法然上人の歌。教義のことを意識せずに味わっても、なんとも美しく、心に沁みてくる歌。

 

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 在原業平が親しくお仕えしていた惟喬親王は、急に出家、隠棲してしまった。

 比叡山の麓、雪高く積もっている庵室に伺候したが、親王は何もすることもなく、悲しそうにしておられた。

 

  忘れては夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏み分けて君を見むとは

(ふと現実を忘れて、これは夢なのだと思います。雪を踏み分けて殿下に会いに来ることになろうとは)

 

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重源  垂木に木舞を付けようと思う。

大工  そんな風変わりな建物は見たことも習ったこともありません。


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  極楽随想

 比叡山の横川に修行した恵心僧都源信は、大和に生まれ、二上山の西に太陽が沈む光景を見て育った。あの二つの峰の彼方にあの世があるという思いが、「山越阿弥陀」の画題を生んだと折口信夫は直感した。だが、あの山、私には比叡山のようにも見える。

 「駅」は、ファン投票でも一位に選ばれた竹内まりやの代表曲であるが、もとは中森明菜に楽曲提供された作品だった。明菜がこの曲に示した解釈のひどさに山下達郎が憤慨して、あらためてまりやがレコーディングすることになったという話はよく知られている。

明菜がどのような発言をしたのかは伝わっていないし、達郎の憤慨の内容も今となってはわからないが、私なりにこの歌の情景を語っておきたい。

 

 2年ぶりに、昔愛していたあの人を、黄昏の駅で見かけた彼女。彼は気づきもせずに、早い足取りで電車に向かう。それぞれに待つ人のもとへ戻っていくのね、と彼女が感じたように、おそらく彼も今は誰かと暮らしているのだろう。しかし、その家に帰っていく姿は、うつむく横顔である。見ていて思わず涙あふれてきそうな姿である。疲れている、そして幸せではないのであろう。そのことは、「見覚えのあるレインコート、黄昏の駅で胸が震えた」という語り出しに端的に表れている。2年前、別れた時のレインコートを着ているのである。新しい彼女と一緒に買い物に行って、彼女の見立てで新しいコートを買った様子がないのだ。

 

 「懐かしさの一歩手前で、こみ上げる苦い思い出に言葉がとても見つからない」という。まずは懐かしさ、しかし、「あなたが居なくてもこうして元気で暮らしていることを、さりげなく告げたかったのに」、声をかけようとして思いとどまったのが、「苦い思い出」だった。おそらく、昔別れを切り出したのは彼女の方だったろう。振った方は、一瞬、私は元気だから大丈夫と伝えようと思ったが、相手の様子を見て、とてもそんな状態ではないことに初めて思い至ったのだろう。

今になってあなたの気持ち、初めて分かるの。私だけ愛してたことも。」とある。

「私だけ愛してた」というのは、「私だけがあなたを愛してた」ときにも「私だけをあなたが愛してた」ときにも使える表現であるが、この歌の文脈では、「あなたが私だけを愛していたこと、私を失ったことから立ち直っていないことに今になって初めて気づいた」と解される。

 

 「ラッシュの人波にのまれて消えてゆく後姿がやけに悲しく心に残る。改札口を出るころには、雨も止みかけたこの街にありふれた夜がやってくる。」

そう、この雨は涙。やがて、二人それぞれにいつもと同じ暮らしがやってくるのだ。