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「生きていたくない」
「いなくなりたい」
「消えたい」
「私なんていない方がいい」
そんな言葉が以前よりも増えたなら、
心の専門家に繋ぐための行動を始めて。
まずはあなたが、情報収集をする。
いつどこで、どんな選択肢があるのか、把握する。
そして、一緒に行くことを提案する。
もし、
どのくらい「行動」に移しているのかを
確認していく中で、
「いつ、どこで、どんな風に」
「もしも私がいなくなったら、○○は…」
というくらい
具体的な状況まで考え始めていたら、
(あるいは、そのための準備を匂わせる
何かを用意していたら)
大至急、
専門医に連絡を。
そして最低2日間は、
絶対に、1人にしないこと。
こころの専門医は、
内科のように、
今から行って
診てもらえるわけじゃない。
でも、
①生死に関する言葉の量
②具体的な行動を検討しているか
③準備を始めているか
これらの情報を伝えると
緊急度を判断してもらいやすくなるよ。
「大げさに受け取って恥をかいた」
「必死になってバカみたい」
それでいいじゃない。
最悪の事態が起こって、
「あの時ちゃんと聞いていれば」なんて
取り返しのつかない後悔をすることに比べたら
恥をかいて、失敗して、
何年後かに笑い話になっている方がよくない??
こういう比較を聞くと、
「日本の教育現場はそんな風に
子供に責任転嫁する酷い環境なんだ」
とザワザワするね。
「教員も、学校も、社会も、政治家も、
みんな助けてくれない、弱者が苦しんでいる」
そう思ったら、つらく苦しくなっちゃうね。
でもさ、
「正義と悪」みたいに、
完全に白黒つけられるものではないんじゃないかなぁ。
そうやって、
自分が弱者であると言い聞かせなくても良いんじゃないかな?
苦しい状況から抜け出せない時、
自分がものすごくひどい目にあって
誰の助けも得られないように感じた時、
自分の無力さを感じた時、
ついつい、
目の前に居る「担任」や「通っている学校」との
戦いを始めてしまいがちだけれど、
あなたの敵は、その人じゃないかもしれないよ?
そもそも、あなたに敵は居なくて、
このアクシデントが、
あなたにとってベストな場所へ動くための
ターニングポイントなのかもしれないよ?
まいったなぁ・・・・。
そうかぁ・・・。
そうやって天を仰いだら、
できるだけのことをやって、
次の流れを待ってみよう。
助けてくれないように感じる学校も、
こちらの問題のように言ってくる担任も、
悪意や攻撃で関わってきているとは限らない。
と、私は思うんだ。
彼らもたくさんの制約の中で
沢山の責任を抱えて、
必死に教育と向き合っている1人なんじゃないかな。
自動的に教員になれるわけじゃない。
単位を取って、実習に行って、試験を受けて…
沢山の難関を突破して、
意志をもって教員になる。
その道の途中で、諦めることは何度でもできたはず。
でも、進んできたってことは、
推し進める何らかの志があったんだと思う。
自分が志した教育ができないことに
心を痛めているかもしれない。
自分の無力さに打ちのめされて、
新しいやり方を取り入れたのかもしれない。
どんな思いで、今そこで
そうしているのかはわからないけれど、
分かり合えないその人との闘いから降りて、
「より良い未来へ向けた分岐点に来た」と
道を外れることを楽しんでみようよ。
スクールカウンセラーになるまで、
考え方が変わって、人生が変わった。
「今ここでなんと応えるか」
「何を拾い、何を受け流すか」
「これをいまこのタイミングで伝えるのが、
本当にこの人にとってベストなタイミングか」
をめちゃくちゃ考える。
聞きたい気持ちをグッと堪えて、
心も体も傾けて聴く。
修行のように、
昨日、夜中に
うきうきしながら作ったプールバックを
娘が喜んで持って行ってくれて、
記事を書きながら思ったこと。
お片付けの人たちがよく言う
「人の想いが乗ったものに囲まれた生活」
って、これのことだなぁって。
本当にありがたいことに、
おさがりをくださる知人がいて、
めちゃくちゃ助かっている。
畑で泥遊びをする我が家は、
畑に置く分の着替えも必要。
だから、おさがりに本当に助けられてる。
でも、
ありがたく使わせていただくところ、
と、
自分でこだわるところ、
ここをしっかり分けなきゃだめだ。
と思った。
先月、
娘の水泳用品を買いそろえながら
「プールバックも新調しようかなぁ。」
「おさがりもあるし買わなくてもいいかなぁ。」
「ナップザックみたいに背負えた方が、
登校の時、楽だろうなぁ。」
「でも、これだったら自分でも作れるしなぁ。」
「使えるものがあるのに、
こっちの方がときめくから
で買うなんて贅沢だよな」
799円のプールバックを買うことすら、
うーん
うーん
と唸って、
売り場の前を行ったり来たりしながら、
保留にした。
(正確に言えば、おさがりを使うことを選んでた)
で、壊れたわけですよ。
初日に。
そして、
壊れたカバンを見た瞬間に浮かんだのは、
「今夜中に作らなきゃ♡」
だったんですよ。
それが物語ってるよねーーー。
私にとって、
ハンドメイドできるものは、
自分でこだわるところ。
畑で使うものは、
ありがたく使わせていただくもの。
これをごちゃまぜにして、
「自分で作れるけど、
あるからこれでいいや」
としていると、
だんだんとストレスが溜まっていく。
家の中に好きじゃないものがあふれて、
なんだか居心地が悪い空間になる。
嫌いじゃないけれど、
好きじゃないもの。
それに囲まれて暮らすことが
いかに居心地を悪くさせるか。
お片付けの専門家が
みんな口をそろえて言っているよね。
畑のお着換えボックスが
よその子のおさがり100%でも
全く気にならない。
むしろ
「いつも本当にありがとうございます!!」
「今日も泥まみれ、楽しそうだねー!」
ってゆとりが生まれる。
自分にとって、
「ここは、」
っていうのを見つけることって大事なんだな~。
それがはっきりしていたら、
799円のプールバックの売り場で
うーん、うーんと
行ったり来たりするまでもなく、
「いつ作るか」と
行動できていたんだろうな。
おさがりのプールバックが
プール初日に壊れた!
明日もプールあるのに!
そんなとき、
みんなならどう思う?
わたしはね、ウキウキしてた。
保育園の頃に使っていた
ミッフィーのプールバックが壊れた時にも
ミシンで縫い直したことがある。
だから、この素材も
おそらく縫えるだろう。
でも、一回り小さくなっちゃうんだよな…。
「今から買いに行かなきゃ」とは全く思わず、
「今夜中に作らなきゃ」で思考が展開していた。
朝5時に起きて、一日中活動して、
寝かしつけが終わった夜9時。
以前のわたしなら
100%寝落ちしていた時間だけれど
ルンルンしながら、布を切った。
ミシンの上にカメラを置いて、
制作過程の動画まで撮ってみた。
「やっぱり楽しいなぁ」
「家族のために作るくらいがちょうどいいなぁ」
と思いながら。
ハンドメイド作家として
販売する経験を経たからこそ、
ここにたどり着けた。
私は、
ハンドメイド歴30年以上。
最近は夫が職場に来ていく服を縫えるくらい、
レベルを上げている。
でも実は、けっこうめんどくさがりで、
糸の始末とか苦手。
なのに、美意識は高くて完璧主義。
おまけに心配性。
ハンドメイド作家として活動していた時は
「販売するなら、
縫い目もきれいに平行に、
糸の始末も美しく」
「たとえ500円の商品であっても、
”お金を払って買ったのに…”
というがっかりが生まれないように、
細心の注意を払って作りたい」
商品に添えるお手紙に
丁寧に作っていることを書き添えつつ、
それでもやっぱり
「これで大丈夫かな?おかしいところないかな?」
と何度も確認してしまう性分だった。
でも、自分のため、家族のために作るものなら、
糸の処理が雑だとか、
縫い目が曲がってるとか、
構造的欠陥があるとか、
そんなの些細なこと。
ピッタリなサイズで、
欲しい機能があって、
心躍る柄で、
用途に合わせた素材。
それだけで100点。
朝起きてきた娘に、
新しい鞄を作ったことを知らせたら、
大喜びして持って行ってくれた。
だから私にとってのハンドメイドは
副業ではなく
趣味がちょうどいい。
それを再確認した
夜の針仕事だった。
****
レジ袋が有料化になったとき、
マイバックをハンドメイドしようと思って
買った布。
当時は自分の裁縫スキルに自信が無くて、
布を買ったはいいものの、
裁断する勇気すら出なかった。
コロナ禍での布マスク販売を通して、
20km以上縫った私は
(10㎞の糸が売ってるのも、この時に知った)
「試してみよう」
「失敗してもいいや」
「やり始めてみないとわからない」
「挽回する力は意外とあるもんだ」
ということを学んだ。
80㎝の巻きタオルも楽々入る。
でも紐のストックが無くて、
3色(水色、緑、白)になってしまった。
だけど、白い紐に保育園時代の
ネームシールが貼ってあったから
記名する作業が省けた~。