評伝: 風にはじまる! 衝刹史・宮沢賢治 伏久田喬行

 

 

 どっどど とどうど とどうど どどう

 青いくるみも吹きとばせ

 すっぱいかりんも吹きとばせ

 どっどど とどうど どどうど どどう

 どっどど とどうど とどうど どどう

 

 

 衝戟の刹那は、突如、十歳にも充たない頭脳にひゅるるるるるうといちじんの<風>とともにおとずれた。暗闇のなかでじっと眼をこらせるとわずか十歳の頭脳に、同時に耳から「どっどど とどうど どどうど どどう」とけしてことばではない、さりとて単なるリズムでもない、<風>の存在があきらかに、平面の銀幕からとびだしてきた。

 もはや、ひとむかし半を詳細な分析の手はとどかない。また、その必要もない。ただ、現在の私の記憶の底に、それよりまえ、ややふたむかしに近い時間の逆に、台風のふきあれる中を、父親にひかれて逃げ、ようやく一台のボンコツトラックに避難したとき、妙にさわやかにも心地よげな感覚が去来した事実が、同時によみがえってくる。

 台風の襲来は、そのたびごとにわたしの子供心のなかに、不安などしのいで、むしろ生存的な快感をのこしていった、といえる。それは、十分に説明がつく、あるいは単純な側面であっただろうが、十歳のわたしをさらにとらえたのは「どっどど とどう」にはじまる映画「風の又三郎」であった。

 それより以前に、例によって教科書に「雨ニモ負ケズ」の賢治を体験しているわたしの幼い頭脳は、このとき多少の混乱をきたしている。時にそって「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ…」の一篇にはほとんど何の感動も得ることなく「なんとシンボウづよい人なのか」という感想を持ったていどである。もっと端的に言えば、うたがうまでもなく、わたしは「どっどど とどう」と魅きこまれた。

 わたしのなかの<風>に対するほぼ生理的思入れ、とも言うべきもの、それはかつてちまたに流れた「南川始+ゲタハナオス」だったかの、「そこには風が吹いているだけェ~」などという<風>ではあきらかにない。そもそも「ただ風がふいているだけ」などという言葉は、わたしの辞書ではありえないのだ。「風にふかれて」「心に風が吹きぬける」ということばはまだしも「風と肉体」をあらわしている。が、やはり、<風>は「山嵐」(おろし)から<風>にいたるべきであろうというのが「わたしの風」である。

 それに、あるいは又三郎が風にのる忍術のような風景に、どっどどどうとわたしを吹きとばさんばかりの勢いを、さらには「向かい風」から「追い風」に変身させてしまう、「風との同化」を体感することであったろう。ことばをかえれば、飛ぶことへのかぎりないあこがれであったろう。「自然」の変動変動への快感ーそれはおそらく幼いわたしの頭脳のなかに、ひっそりと「脱地上」のさむさむとした願望がうえつけられていることの最初の発見でもあった。

 フロイト流に言えば、「飛ぶ夢」と最も典型的な「性的願望」ということになる。それはそれで、きわめて正しい、とわたしはおもう。まいあがる竜巻と木の葉、それを受ける肉体の抵抗感、オドロキ、そして、飛ぶ、衝動ーあきらかに、生体の原始的交感といえよう。わたしはもう何度も「空飛ぶ夢」を見ているし、そしてたったいち度だけ、あたかも嘘のように台風の襲来した日に飛行機にのり、嵐の中を飛び立った瞬間、えもいわれぬ満足感にみたされた。

 それらの言葉から、たしかにフロイトの解釈は正しいが、いわゆるセクシャリティとは、ほとんど「人間相互間」のものではありえず、それらは単に補足的なものでしかないようである。

 だから、人はいったい何に満足するか、という欲望の追及はそれ自体きわめて「性的」なのであり、その「セクシャリティ」が拡大し広大公人無辺になり、ついに「地球」をつきぬけてしまうと、逆にとりのこされた卑小な<肉体>との隔絶感にさいなまれてしまう。

 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」はその意味で、きわめて意志的な禁欲の表れであって

彼が農業に従事しながら、農業にとっては敵ともいえる、どっどどどどうの<風>にひかれる「自己矛盾」を知りぬいていたゆえのイマシメというようにおもえる。もちろん十歳の頭脳にそんなことがわかりえようはずもなく、その後、「風にはじまる」わたしの体験は、当然ながらさまざ異和となってわたしを襲いつづけていくが、いぜん、わたしの場合は<風>がどどうとふきつづけ、「春と修羅」、「原体制〇連」などの黒き光のエネルギーにとらわれつづけてゆくこととあいなり、衝戟の刹那はひそかに息づきながら進行する。

 

 

 風がおもてで呼んでいる

 「さあおきて

 赤いシャツと

 いつもぼろぼろの外套を着て

 早くおもてへ出て来るんだ」と

 風が父々叫んでいる

 「おれたちはみんな

 おまえの出るのを迎えるために

 おまえのすきなみぞれの粒を

 横ぞっぽうに飛ばしている

 おまえも早く飛びだして

 あそこの陵ある巖の上

 葉のない黒い林のなかで

 うつくしいソプラノをもった

 おれたちのなかのひとりと

 約束通り結婚しろ」と

 繰り返し繰り返し

 風がおもてで呼んでいる

 (宮沢 賢治)

 

 

 

これは、小冊子Ⅳの「風にはじまる」という宮沢賢治と風にまつわる評伝らしきエッセイから掲載した。この号の劣化が特にひどく、コピーが摩耗してしまってよく読めない。また文字が小さいため読みにくく、こちらも災いして拡大鏡を使用しなければ文字を拾うことも難しかった。それゆえこそ、この文が全部摩耗しきらないうちに書きうつしておく必要があった。

 

この文章は宮沢賢治を評伝的に紹介しつつ、全体がひとつの詩に昇華しているように思う。夫の残した文章を改めて印字している時、私には夫からの風を感じる気がしている。

 

夫の原点が「風」の存在であり、夫は今では魂となってその原点の風に乗り別次元を遊泳している…それをイメージし、そのことが私の祈りにもつながっている。

 

(どうしても読めない文字もいくつかあり、そのケースは〇印をつけておきました。ご容赦ください。)