「自己表出」とは何か~経済学からのアプローチ  その1  

 吉本さんは、色々なところで、自身の『言語にとって美とはなにか』の「自己表出」・「指示表出」という概念が、マルクスの価値論の示唆を得て生まれて来たものであることを明らかにしています。

 「1960年か61年ころ、わたしたちは価値(体)としての商品をめぐるこのマルクスの劇を、言語体のほうへ拡張しようとしていた。
  あるひとつの商品は、価値体として相対的価値形態の系列の要素のひとつとみることもできれば、等価形態の要素のひとつとしてみることもできる。だが同時にこのふたつの系列の要素であることはできない。にもかかわらず、相対的価値形態の系列と等価形態の系列とは、暗喩としてひとつの商品を価値(体)としてさしている。そうだとすれば、もともと相対的価値形態の系列と等価形態の系列とを、構造として内在させたひとつの価値体の集合にまで、商品の概念を拡張すれば、言語もまたこの価値体の集合に含まれるはずだ。わたしのかんがえでは、マルクスのいう形態の概念は、このばあい内在する構造という概念に拡張されていなければならないとおもわれた。」
(『ハイ・イメージ論Ⅱ』 p40 福武書店 1990 初出「拡張論」『海燕』1987年6~10月号)

 「価値としての商品のばあいの相対的な価値を指示表出、等価を自己表出とよぶとすると、表出体としてのすべての言語は、みかけのうえで指示表出が極大で自己表出が極小であるような言語と、指示表出が極小で自己表出が極大であるような言語を、ふたつの限界として、ふたつの差異系列を内につつんだ構造をつくっていることになる。」(同前p42)

  「わたしたちの発想は(引用補:ソシュールとは)ちがっていた。マルクスの商品の価値形態の概念を拡張して、すぐに価値としての言語体の形態論を展開しようとしたのだ。わたしたちが言語の価値を指示表出価値と自己表出価値のふたつの系列に分離し、それらの系列が同時に出あう場所に言語の構造体を設定したとき、いつも『資本論』における商品の価値形態論との差異と同一性が念頭におかれていた。わたしたちはマルクスの価値形態論の影響下に出発しながら、どこでどう越境すべきか測っていたといえる。」(同前 p50)

 「ぼくがマルクスから学んだことに、もうひとつあります。 それは言語論です。・・・(中略)・・・ぼく自身の言語論は、マルクスの『資本論』の価値形態論から作りあげました。・・・(中略)・・・価値には使用価値と交換価値とがあるんですが、交換価値こそが価値だというわけです。商品の価値は何か、交換できることだ。つまり何時間の労働と交換できるか、というのが価値なんだ、というとらえ方です。
 言語論にじつはこの考え方をもっていくことができるとおもうんです。言語は、自己表出と指示表出というふたつの表出からできています。そして、潜在化した指示表出を通った自己表出が言語の価値です。それはまさに、マルクスが交換価値が要するに価値なのだといってるのとおなじことで、自己表出が価値なんです。指示表出というものは潜在化されていて表に出ず、自己表出されて表に出たものが言語の価値となります。」
(「三木成夫の方法と前古代言語論」1993年の講演。『新・死の位相学』春秋社,1997所収)

 「僕の指示表出と自己表出という概念は、マルクスの価値論の使用価値と交換価値という概念から重大なヒントを得ていますが、・・・」(『吉本隆明が語る戦後55年②』 三交社 2001 p48 談話収録1995.5.18)

 「僕は要するに、”使用価値”に該当するものを”指示表出”として、”交換価値”に該当するものとして”自己表出”っていう二つの概念を作ったわけ。で、この二つがあるとね、文体論ができるわけですよ。それで大体枠組みができて、あとは書き始めたわけです。」(『吉本隆明 自著を語る』 ロッキング・オン 2007 p128 初出はSIGHT第27号2006年1月号)

  「この使用価値と交換価値という概念は、ぼくの芸術言語でいうと、自分なりに自分が納得できる言葉である『自己表出』と、コミュニケーションのための言葉である『指示表出』に対応します。
  初めはそう考えて、使用価値に当るのが『自己表出』*で、交換価値に相当するのが『指示表出』*であるとしておけばいいのではないかと思っていましたから、『言語にとって美とはなにか』でもそう書いたわけですが、しかし考えていくうちに、そこのところはもう少し詰めておいたほうがいいのではないかと思うようになりました。つまり、自己表出を縦糸とすれば指示表出は横糸で、この縦糸と横糸で織り上げられた織物が言語であると、どうもそういうふうに考えたほうがいいのではないかと思うようになりました。」
(『日本語のゆくえ』光文社 2008 p66)
  *引用者注:「自己表出」と「指示表出」が逆で、入れ変えないと誤りです。談話の記録あるいは編集の際のミスでしょう。


 この連載の第一回でもちょっと触れたと思いますが、『言語にとって美とはなにか』が出版されて、まだそれほど一般に広く読まれてはおらず、これを正面から論じた書評や評論の類もほとんどなかったころ、学生だった私は、雑誌『思想の科学』に掲載された、この著作を論じた2つの評論を読みました。その雑誌が手元になくて確認できませんが、二人の論者のうち一人は平田某という人だったと記憶していますが、その人の文章の末尾近くに、「吉本の自己表出、指示表出というキーワードから、すぐに資本論の交換価値、使用価値を連想するような輩が居るだろうが、ふざけるなと言いたい」というような趣旨(私の記憶にある限りでの趣旨で、引用ではありません)の、かなり居丈高な言い方で、吉本さんの自己表出、指示表出という概念の源流に資本論の価値形態論を見ることを頭から否定し、素直な読者を威嚇するかのような言葉が書かれていました。

 それを読んだとき、えっ?あれが『資本論』の商品分析に範をとった記述でなければ、いったい何なの?連想するのは当然じゃないの!と思い、不思議なことを言う人もあるものだと、ひどく違和感を覚えた記憶があって、いまだに強く印象に残っています。吉本さんの発想と論理展開の仕方は、まさに『資本論』の商品の分析と論理の進め方を踏襲し、マルクスの経済学批判の方法を吉本さん流の言語美学の方法へと換骨奪胎するもので、それはよほど鬼面人を驚かす類の人と違うことを言って目立ちたいような輩でない限り、誰が読んでもすぐにわかることだったと思います。

 マルクスが『資本論』第二版のあとがきで、当時ドイツで流行していた、ヘーゲルを「死せる犬」扱いしていた「僭越で凡庸な亜流主義」に腹を立てて、自身は『資本論』の執筆にあたって「かの偉大な思想家の弟子であることを公言して、価値理論にかんする章のここかしこで、彼独自の表現様式に媚を呈しさえした」(長谷部文雄訳 『世界の大思想(18)』 p20 河出書房新社 1964)と書きつけたのでした。

 吉本さんもまた、この著作における言語の分析と論理の進め方において、記述のスタイルにおいて、まさに「かの偉大な思想家の弟子であることを公言して、ここかしこで、彼独自の表現様式に媚びを呈しさえした」と言ってもよい姿勢を隠そうとしていません。

 しかし、吉本さんが資本論から直接示唆を受けてこの著作を書いたことや、具体的にどういう示唆を受けたかについて、自身で語ったり書いたりするようになるのは、私が記憶する限り、同著作が出版されてから、かなり年月が経ってからであったように思います。たぶん『ハイ・イメージ論』の着想を得て、その時点でのより拡張された視野、視点の高度から、『言語にとって美とはなにか』を振り返ったときに見える光景を語り出したのがきっかけだったのではないかと思います。そして、そのときには、上記の『ハイ・イメージ論』所収の「拡張論」で展開されたように、ただマルクスから示唆を受けたと語るだけではなく、彼自身が具体的に経済学的なタームと対照させながら自身の言語美の論理を拡張された視野、より高度な視点からとらえかえす形で仔細にあとづけています。

  「自己表出」というキーワードについて再確認するために、これまで言語論的なアプローチということで、時枝誠記、三浦つとむの言語論などを取り上げてきましたが、今回は言語論や芸術論の延長上にあるものではなく、まったくジャンルの異なる経済学の発想と論理、具体的には吉本さん自身が直接大きな示唆を受けたと述べてきたマルクスの『資本論』の商品論(その中心としての価値形態論)の示唆がどのようなものであったかを、吉本さん自身の言葉をたどることでざっと再確認しておきたいと思います。

  吉本さん自身が『言語にとって美とはなにか』を書くにあたって、資本論の論理から何を学んだかを一番丁寧に振り返ったは、同書の<表現としての言語>から言語芸術論へという問題意識をさらに拡張し、「世界視線」とか「パライメージ」といった新たな概念を使って、より高度な視点と、したがってまたより広い視野のうちに人間の認識と表現をその高度化した現在的な水準で扱おうとした『ハイ・イメージ論』(第Ⅱ巻)の中の「拡張論」で、『言語にとって美とはなにか』執筆当時をあらためて振り返り、その意味合いを「拡張論」執筆時点から自己分析してみせた部分だろうと思います。従って、ここでは、その論考に沿って吉本さんの考えの道筋をたどってみることにします。

 吉本さんは「拡張論」の冒頭から、アダム・スミスの『国富論草稿』を引用して、そこでスミスが、分業の効用を、一本の壜を一人でつくる想定から説き起こして、これを分業によってつくる場合には一人あたり60万倍も大量に生産できる、と語るところを取り上げ、「わたしには読むたびに澄明な抒情詩を読むような感じ」がする、と述べています。そんな印象がどこから来るのかといえば、スミスの分業の像は、「分業がはてしなくたくさんの分野をこまかにしてゆけば、それに一対一で対応する労働者の数が無限大の大きさのほうにむかい、それにともなって生産量もまた無限大のほうにおおきくなり、賃金もまた無限大のほうに増えてゆくことが、無意識のうちに前提されている」(拡張論p9)ところからです。

 スミスは人間が分業によって生産量の増大を見出したのは、叡智によって有効さを増す方法がわかったからではなく、人間が本来的にもつ性向の必然的な結果だとみなしています。

 「分業からこのように多くの利益が生ずるが、この分業は、もともと、それがもたらす一般的富裕を予見し意図する、人間の智恵の結果ではない。それは、そのような廣汎な効用を考慮しない、人間本性における一定の本能(プリンシプル)あるいは性向(プロペンシティ)の、すこぶる緩慢なかつ漸進的ではあるが必然的な、結果なのである。これは、すべての人間には共通であって、他の動物にはまったくみられない、ひとつの性向、すなわち、ある物を他の物と取引(トラック)し交換(エクスチェンジ)し交易(エクスチェンジ)する性向である。この性向がすべての人間に共通であるということは、十分にあきらかである。」(スミス 前掲書 p82-83)

 「われわれは、こうして交換 barter and exchange によって、自分たちに必要なこれらの相互の世話の大部分を、たがいに人から受けるのであるが、それと同様に、文明社會の全富裕の基礎となる分業を、はじめて発生させるのもまた、このおなじ交換性向 trucking disposition である。狩猟民族や牧畜民族において、ある蠻人が、他の者よりも早く上手に弓矢を作りうると、みとめられる。そして、彼は、ときどき、これらの弓矢を、彼の仲間の鹿の肉や家畜と交換する。このようにして、次第に、こうする方が、自分自身で野原にでかけて狩をするより多くの肉や家畜を獲得しうることに氣づくにいたる。そこで、彼自身の利益と安楽への顧慮から、弓矢つくりが彼の主な仕事(ビジネス)となり、こうして彼は一種の武器製造業者となるのである。」(同前p88-89)
  
 たしかにこうしたスミスの眼にうつる人間のすがたもまた、吉本さんがいうように「抒情詩的」です。むろん動物たちに交じって山野を駆け巡っていた人間がその本来的な「性向」として交換を志向し、分業によって互いの差異を固定化していく先に、これとは違った散文的な世界の光景が待っているのではあるけれど、スミスが目にしているのは、この「交換性向」にもとづく取引、契約、購買等々によって、人間が自然を脱し、利益、効力、経済等々が支配する世界へと跳躍を果たす、その跳躍台に立ったばかりの人間たちの姿だと言えるでしょう。

 「動物は、壮年に達するとまれにしかその仲間の助力を必要としないけれども、人間は彼の同胞の助けをつねに必要とするのであって、しかもそれを彼等の恩恵(ベネヴォレンス)にのみ期待しても無駄なのである。それよりも、彼が、自分の利益に、彼等の自愛心を關與させることができれば、すなわち、自分が彼等にもとめていることを彼等がすれば、彼等自身の利益にもなることを、相手に示しうるならば、彼ははるかに首尾よくその目的を達することができるであろう。…(中略)…われわれは、肉屋や酒屋やパン屋の恩恵によって、食事をえようとするのではなくて、彼等の自分の利益への關心によってさうしようとするのである。われわれは彼等の人類愛(ヒューマニテティ)に訴えるのではなく、自愛心に訴えるのであり、われわれ自身の必要を彼らにかたるのではなく、彼等の利益をかたるのである。」(同前p85-86)

 スミスの目にうつる人間はそうした新しい世界へ向かう跳躍台の上に立つ希望に満ちた姿をしていたに違いありません。

  『国富論』の分業の概念に、吉本さんはもうひとつの洞察があったと指摘しています。それはスミスが壜製造業者や労働者のあいだから「哲学(者)」を発見したことです。これはスミスを直接引用するほうが分かりやすいでしょう。

 「すでに知られていて、またすでに一つの特定の目的に適用された諸力を、もっとも有利な方法で使用することは、才能ある技術家の能力をこえるものではない。しかし、全然知られていず、また、類似のいかなる目的にもこれまで使用されていなかった、あたらしい力の使用をおもいつくのは、単なる技術家が生れながらにもっているよりも、廣汎な思考と観察を有する人々にのみ、なしうることである。ある技術家がそのような発見をするならば、彼はそれによって、自分が、表面上の職業は何であろうと、単なる技術家ではなくてほんとうの哲学者であることを、しめすのである。ほんとうの哲学者だけが、蒸気機関を発明しえたのであり、以前にはかんがえもつかなかった自然力を使って大きな結果を生みだすことを考案しえたのである。」(アダム・スミス『國富論草稿』p79 水田洋訳。日本評論社 世界古典文庫86)

 スミスによるこの「哲学(者)」の発見に対する吉本さんの評価は次のようなものです。

 「スミスの詩的な哲学、その経済(エコノミー)の抒情詩をほんとに独創的にしているのは、こういう人間の内外のちがい(引用注:分業で生じる社会的差異や分業人の性格の違い等々)をひとつに融合しておなじものにしてしまう『哲学(人)』という概念を着想したことにあった。かれが『思索すること』、『推理すること』のなかに、たくさんの勤労大衆が分業のそれぞれの場面で考えこみ、思いつき、推理したたくさんのひらめきの断片をすべて吸収して、おなじ器のなかにおさめ、それを社会にさしだす機能の世界をみた。」(吉本「拡張論」p14)

 このスミスのいう「哲学(者)」の細分化、知識の増加についても、肉体労働の分業に伴う労働の細分化、生産量の増大と同じ像が思い描かれています。

  「哲学または思索は、社会が進歩すると、自然に、他の一切の職業(エンプロイメント)とおなじく、市民のうちの一特定階級の唯一の職業(オキュペイション)となる。そしてそれは他のあらゆる職業(トレード)とおなじく、多くのことなった部門に細分される。それで、われわれは現在、機械学、化学、天文学、物理学、形而上学、倫理学、政治学、商業学、批評学の、諸哲学者をもっている。そして、哲学においても、他の職業(ビジネス)におけるごとく、仕事(エンプロイメント)の細分が、技巧を改良し、時間を節約するのである。各個人は、彼の固有の部門において一層の熟達者となり、そして、それによって、全体としての仕事はますます多くなり、知識の分量はいちじるしく増加するのである。」(前掲 スミス 『国富論草稿』水田洋訳 p80-81)

  そして、分業の特殊な一つの分野としてあるはずの、こうした「哲学(者)」の特殊な役割と仕事が、吉本さんによれば「人間社会のうえにでてくるすべての大文字の問題をつつみこんで、きりひらいてゆく」ことになります。それがスミスの考えた制度、国家、宗教、社会道徳の成り立ちだった、と。これはマルクスの政治経済思想煮も大きな影響を与えたとされています。

 そうしたスミスの「拡張」を証拠立てる記述は次のようなものです。

   「富裕で商業的な社會においては、また、思索すること、すなわち、推理することが、他のあらゆる職業(エンプロイメント)とおなじように、非常に少數の人たちによってなされる一つの特殊な仕事(ビジネス)となる。これらの人たちは、尨大な勤労大衆の有するすべての思想と推理とを、社會に供給するのである。ふつうの人に、彼の特殊な職業の範囲内ではおこらない問題について、彼がもっているすべての知識を、正確に吟味させてみよう。そうすれば、彼は、自分が知っているほとんどすべてのことが、他人からか、本からか、わかいときにうけた学問上のおしえからか、あるいは學識者ととりかわした時折の會話から、えたものであることがわかるであろう。そしてその非常にわずかの部分のみが、彼自身の觀察と反省の産物であることに、氣がつくであろう。のこりのすべては、彼の靴や靴下とおなじように、ある人々から購入されたのであって、彼等は、その特殊な財貨を、つくりあげて市場に提供することを、その仕事としているのである。このようにして、人は、宗教、道徳、政府という大問題について、つまり彼自身の幸福や彼の國の幸福にかんする、すべての彼の一般的な思想を獲得したのである。これらの重要な問題のすべてにかんれんする、この全體系 System は、ほとんどつねに、もとは他の人々の勤労(インダストリ)の産物であったことがわかるであろう。これらの人々から、彼自身もしくは彼の敎育にあたった人々は、他の商品の場合とおなじように、彼等自身の労働の生産物の一部との交換、交易によって、それを獲得するのである。」(同前 p96-97)

  こうして、動物生とさほど変わりない自然の光景の中に生きる人間が、もちまえの本来的な「性向」(交換性向)によって、取引、契約、購買等々を梃子にして自然を脱し、仕事(職業)を無限に多様化し、細分化していくことによって、生産力を飛躍的に高め、利益、効力、経済等々の導く経済社会をつくりだしていったという、分業の水平的な「拡張」と同時に、スミスはそうした勤労大衆の(活動)の中に彼のいわゆる「哲学(者)」を発見することによって、多様化し細分化していく諸々の仕事の中から生まれるあらたな思索や推理の果実をひとつにして社会に提供する「特殊な」機能を、いわば細分化した人間の諸活動を通底する領域に見いだし、そこに宗教、道徳、政府といった「大問題」(吉本さんのいう「大文字の問題」)に関わる思想領域を拓く、分業の垂直的な「拡張」を果たした、というのが吉本さんが言わんとするところでしょう。

 スミスのこうした一貫して牧歌的、抒情的な思想の性格については、これから言語論との関わりで核心になる「価値」論に関して、最もわかりやすく、象徴的な形でその像が語られていたのを、吉本さんに強い印象を与えていたようです。

 「アダム・スミスには、彼自身が書いた『国富論』のノートのような文章(『国富論草稿』)があります。ずいぶん昔、日本評論社の世界古典文庫から水田洋さんの翻訳で出ていましたが、そこにはこんなことが書かれています。
 ― 人間が自然採集したものを食べて生きつないでいた時代、たとえばリンゴの木が野原に一本植わっていたとする。その木にはリンゴの実が生っている。では、そのリンゴ一個の価値はどういうふうに決めたらいいのか。アダム・スミスはノートのなかでそういう例を挙げ、こう答えています。要するに、リンゴの実を欲しい人間がいまいる場所から木のところまで歩いていって、その木に登り、そうしてリンゴの実をひとつもぎ取ってから木を降りて、また元の場所へ戻ってくる。それだけの労働がリンゴ一個の価値だと考えればいいんだ、と。
 この説明はとてもわかりやすくて、ぼくはそれを読んで労働価値説というものの最初の発想がわかったような気がしました。」
(『日本語のゆくえ』p62-63 2008年 光文社)

 こういう受け止め方には、私が考える吉本さんらしさが典型的に現れているように思います。

 日本でいわゆる思想的な種々の問題を考え、抽象的な言葉を使って論じようとすれば、間違いなく明治以来の輸入学問で急ごしらえにその都度作り出してきた翻訳語を使わざるを得ないのは、日本語で書く者にとっては誰しも避けようのない事態ですが、下手をすると、そうした翻訳舶来用語の操作に習熟することが哲学することだとか、ものを考えることだと錯覚してしまうようなことになりかねないところがあります。
 私が比較的最近、事情があって読まざるをえない羽目になって、或る若い哲学徒のフーコー論を或る程度の準備体操をした上で、私としてはかなりじっくりと腰を据えてつきあう体験をしました。それは彼の初めての本格的な論文である博士論文としてそれを書き、首尾よく博士号をとったので、それをもとにした著書として出版にこぎつけたわけで、著者はたぶんそれまでの7~8年の間、必死でフーコーの全著作を(おそらくは原書で)読み込んで構想を温めて執筆したのだろうと思います。それを書いた意図も明確で、フーコーの個々の著作の読みもそれぞれ丹念でよく考えられていて、アカデミズムの中でやっていけるだけの思考力を十分に感じさせるものでした。

 ところが、その記述のところどころで、表面的には文章として意味をなしているように書かれているけれども、いったい何を指し、何を言っているのかと首を傾げざるを得ないような箇所に遭遇しました。つまり翻訳語としてのいわゆるアカデミックな哲学畑でのジャーゴン(専門用語)の類を自在に駆使しているのですが、それらの言葉の内実がどんなことを意味しているのか、一向に明らかにならないのです。

 普通はそういうところがあれば、周囲で互いに切磋琢磨する同じような志をもった者がいて、これじゃ何を言ってるかわからんよ、とか、これは具体的にはどういうことをイメージしているの?とか、率直に問いかけ、それに即座に応えられなければ、自身の考えがまだ十分に練られておらず、自身でも本当には分かっていないことに違いないので、あらためて再考し、書き直すほかはないのです。しかし、周囲にそういう環境がないと、表面的には哲学用語らしきものを操作してつじつまが合っているような文章ながら、全然意味をなさないものができあがってしまうことがあるものです。

 私はこの若い哲学徒に、かつて読んだカントの次のような言葉を贈って自分の言いたいことを伝えようとしたのでした。

  「われわれが自分たちのもっている概念をどんなに高め、しかもその場合どんなにそれらを感性から抽象しようとも、これらの概念にはやはりいつでも形象的な表象がまつわりついているものだが、これらの表象の本来の使命は、これらの表象がなかったならば経験から引き出されるこのとのできないような概念を、経験的使用に役立たせるところにあるのである。というのはもしこれらの概念になんらかの直観(この直観は、結局なんらかの可能的経験から取り出された実例でなくてはならぬが)がその根底に存していないとしたならば、われわれは自分たちのもっている概念に対してさえも、どうして意味と意義とを与えようとするのだろうか?もしわれわれが後になってこの具象的悟性作用から形象の混合を・・・まず最初には感官による偶然的な近くの混合を、つぎには純粋な感性的直観一般さえも・・・取り除くならば、かの純粋悟性概念が残るが、この純粋悟性概念の外延はいまや拡大されたものであり、思考一般の規則をふくんでいる。一般的論理学でさえもこのような方法で成立してきたのである。そしてわれわれの悟性や理性の経験的使用の中には、考えるべき多くの発見的方法がおそらくまだ隠されたままでひそんでいるが、これらの方法は、もしわれわれにそれらを注意深くかの経験から引き出してくることが分かれば、抽象的な思考においてさえも、おそらく有益な格率によって哲学を豊かにすることができるだろう。(カント「思考を定めるとはどういうことか」の冒頭の文章。門脇卓爾訳、カント全集vo.12 批判期論集、理想社  1786年)   

 ここでカントが概念にはいつでもまつわりついているという「形象的な表象」こそが、抽象的な概念を本当に「腑に落ちる」ように納得させ、理解させる鍵だと私は思います。そして、そういうものを欠いて、翻訳舶来語としての抽象的な哲学用語などを、単に論理的な文の接続として矛盾が生じないように接続してできあがるもっともらしい「哲学論文」など一文の価値もないと考えています。

 吉本さんがすごいと思うのは、彼の書いてきた文章、それを構成する概念、それを表現するキーワードには、丹念に読めば、ことごとくカントの言う「形象的な表象」が背後にくっついていて、一見どんなに目新しい概念だったり、吉本さん独自の用語で最初は戸惑っても、私たちが吉本さんが書くときに頭の中にあったに違いないその「形象的な表象」を探り当てたときは、ほんとうに得心がいき、腑に落ちるというところです。

 そして、そういう吉本さんの言語表現に対する一貫した姿勢は、他者の文章に対する読みにも貫かれていることが、上に引いたような言葉によく表れていると思うのです。もちろんスミスの価値論は『国富論』に書いてあるので、それを読めば分かるし、そこでの記述のほうが厳密で論理的です。しかし、そういう厳密で論理的に隙のない論述をするスミスの頭脳にずっと宿っていただろう「形象的な表象」として、吉本さんが「草稿」に書かれていると話している、ひとりの人間が一本のリンゴの木の実をとってくる場面の像があり、彼がいまいるところから木のところまで行って、木を登り、リンゴの実をひとつもいで、いまいるところへ戻って来るまでの「労働」が、そのリンゴ一個の「価値」なのだ、と考えていたと理解できるなら、私たちは吉本さんと同様に、スミスの「価値」概念を腑に落ちるかたちで納得し、理解できるのではないでしょうか。

 吉本さんがこのあと、スミスに続いてリカードゥを、さらに彼を批判したサミュエル・ベイリーを、そしてその先にマルクスの価値形態論の意味を言語表出論との関連において論じていくとき、これらの思想家の著作への吉本さんの読みは、すべてそうした「形象的な表象」をとらえようとする姿勢に貫かれています。

 それは、スミスに「抒情詩人」の牧歌的な歌を見、リカードゥにそれでは立ち行かなくなった複雑化した生産関係の社会を描く、身もふたもない散文の世界で必死でスミス的な原初の抒情世界の商品に内在する労働=価値概念だけは手放すまいとした書き手を見出し、またそのリカードゥの価値概念を、関係概念を欠くものと批判したベイリーを関係概念の導入による「価値の物語化」だとみなし、さらに価値形態論によってマルクスが商品の価値としての実存の仕方に「形態」という概念を与え、「相対的価値形態」と「等価形態」という相対立する登場人物が演じる「劇」を書いた、というふうな言い方を吉本さんがするとき、吉本さんの目にはスミスやリカードゥ、マルクスが、その価値論の論述の背後につねに「まつわりついて」いただろう「形象的な表象」が見えていたのだろうと思います。

 こうした吉本さんらしい表現は、しばしば彼が詩人でもあったために、詩人的な資質に帰せられたり、それゆえまた論理的な厳密性を欠く曖昧さであると誤解したり、彼が必要(必然性)あって用いる概念や造語あるいは論理について、特異で恣意的なもののようにみなすような者が少なくありません。しかし、こうした表現なり読み方なりというのは、彼の言語観から当然導かれるものであって、翻訳舶来用語の操作で配列された文字列をその指示性だけをたどって論理の糸を取り出せば事足りる機能主義的な言語観で切ってみても、その表現にも読みにもまったく理解が届かないでしょう。

 

 スミスが「抒情詩人」で、リカードゥが「散文家」ならベイリーは「物語作家」であり、マルクスは「劇作家」だという読み≒表現は、別段詩人的なレトリックといった美学的な要請によるものではなく、それぞれの価値論の核心にあるものを、その本質と構造を見極め、相互の差異を明確にしながら、「形象的表象」として抽出するとき、そのように読み、そのように表現しうるということを語っているにすぎません。

 私たちは例えば小説を読むときには、誰でも知らず知らずそういう読み方、つまり登場人物の行動や表情や他者との関わり方等々の背後に、その人物の性格を思い描いて、一人の統合的な人格として展開される物語の中でのふるまいを理解し、あとで友人と感想を述べあうときも、あの主人公は・・・とその性格や生き方やそれとの関連においてその時々の行動や言葉を話題にして語り合うでしょうし、そうした登場人物たちを創造した作者について論じるでしょう。吉本さんがスミスやリカードゥ、ベイリーやマルクスを読むときも、それと同じように、言語表現を読み、理解する時に誰もがしているごく当たり前の読み方をしているだけだと思います。

 むしろ、そうではなくて、ひたすら登場人物たちの、その時々の個別的な行動や表情や言葉だけを追っかけるのに汲々として、この行動はこういう意味、この表情はこういう意味、この言葉はこういう意味、といった学界の約束事(規範)の連鎖とみて、その指示性だけを辿って、表現の「意味」を理解しようとするほうがよほど変ではないでしょうか。しかし、そういうことをやってきたのが、舶来思想を漢語やカタカナ語に置き換えて、舶来の規範を借用し、その表層的な論理を読み=表現することが、学問することであり、思想を論ずることのように錯覚してきたのが、明治以来の日本の大部分の知識人たちだったのではないでしょうか。

 それはさておき、先ほど引用した、吉本さんが労働価値説についてのスミスの「形象的な表象」と言っていい、一本のリンゴの木に生った一個のリンゴの実の価値についての像の記述が、吉本さん自身はスミスの『国富論草稿』にあって、水田洋の翻訳で日本評論社の世界古典文庫から出ている、と出版社まで具体的に述べているので、間違いはないはず、と思うのですが、私がまさにその世界古典文庫を古書で入手して水田洋の翻訳による同書を全部読んでみたのですが、そこには吉本さんのいうスミスの語ったリンゴの実による労働価値の「形象的な表象」についての記述が見当たりません。私も齢をとってぼけてきているから絶対とは言いませんが、スミスの草稿は大した分量でもないので、二度、三度目を通しましたが、やはり見つかりません。或いは出典については、吉本さんの勘違いかもしれません。

 しかし、スミスが一本の壜を職人が一人で作ろうとすればせいぜい一日に一本しか作れないだろうが、これを分業によって仕事を細分化して作れば・・・と分業が生産量を飛躍的に増大させることを述べているところは、もちろんちゃんとあって、吉本さんが指摘するように、それだけで十分にスミスの「抒情詩人」としての面目は躍如として、理解できます。

 私も吉本さんが挙げたような例をどこかで読んだようなおぼろげな記憶があるので、ひょっとすると『国富論』自体の中にそんな記述があったかなぁ、と大昔に斜め読みした同書をパラパラめくってみましたが、どうもその限りではそうした記述が入る余地がないようです。スミスは、リカードゥのように価値論を冒頭に置いて「価値とは何ぞや」という抽象的な議論から始めたりせずに、分業から説き始めて、その先で貨幣の起源と用途を論じる中で、あっさりと「価値」という言葉には使用価値、交換価値という二つの異なる意味がある、と言って、その交換価値を規制する諸原理を研究する上で、「なにがこの交換価値の真実の尺度であるか」と問い、この問いを「すべての商品の実質価格は、どこにあるか」と言い換えることによって、「この実質価格を構成する、つまりつくりあげる、さまざまな部分はなんであるか」という第二の問いを導いています。(『国富論』(上)P31 水田洋訳 河出書房新社1965年 世界の大思想14)

  そして、そのあとはこの「実質価格」を構成するのは労働だ、という労働価値説の展開になりますが、そこでは「価値(交換価値)」と「価格(実質価格)」が同一視されて、リカードゥの価値論のような抽象度の高い透明な記述ではなくて、つねに具体的な商品の価格における名目価格と実質価格の違いといった現実が彼の脳裏を去来しているような書きぶりです。

 「各人は、人間生活の必需品、便宜品、娯楽を享受する能力が、どのていどあるかに応じて、富裕または貧乏なのである。しかし、ひとたび分業が十分におこなわれるようになってからは、それらのうちで、かれ自身の労働がかれに供給しうる部分は、非常にちいさいものにすぎない。それらのうちの圧倒的大部分を、かれは、他の人々の労働からひきださねばならず、かれが支配しうるその労働の量、すなわちかれが購買する能力のあるその労働の量に応じて、かれは富裕であり貧乏であるにちがいない。したがって、ある商品を所有し、みずからそれを使用ないし消費するつもりがなく、それを他の諸商品と交換するつもりの人にとって、その商品の価値は、それによってかれが購買または支配しうる労働の量にひとしい。だから、労働が、すべての商品の交換価値の、真実の尺度なのである。
 あらゆるものの実質価格、あらゆるものがそれを獲得しようとのぞむ人に、ほんとうに支はらわせるのは、それを獲得するさいの苦労と手数である。あらゆるものが、すでにそれを獲得した人およびそれを手ばなすかなにかほかのものと交換しようとのぞむ人にとってもつ、真実のねうちは、それによってかれ自身が節約しうる苦労と手数であり、それが他の人々に課しうる苦労と手数である。貨幣または財貨でかわれるものは、われわれ自身の身体の苦労によって獲得されるものとおなじく、労働によって購買されるのである。その貨幣あるいはそれらの財貨は、たしかに、われわれからこの苦労をのぞいてくれる。それらは、一定量の労働の価値をふくみ、それをわれわれは、そのときに等量の労働の価値をふくみ、それをわれわれは、そのときに等量の労働の価値をふくむと考えられるものと交換する。労働は、すべてのものにたいして支はらわれた、さいしょの価格であり、本源的な購買貨幣である。」
(同前 P32)

 しかし、ともかくも「労働が、すべての商品の交換価値の、真実の尺度」だというスミスの主張の背後に、吉本さんの記憶に残るあのリンゴの木に生った一個のリンゴの実の価値を、その実を取りに行って木の枝からもいで持ち帰るまでの「労働」にその源泉を見出した、牧歌的、抒情詩的な原初の光景が「形象的な表象」としてそこにあることは確かでしょう。そして、スミスは価値に異なる二つの意味があり、ときには使用価値を、ときには交換価値と呼ぶと述べていますが、彼の「形象的な表象」において、価値と使用価値は対立的な形相を見せることなく、ひとつに融け合っているかのように見えます。スミスの見るその表象は、マルクスが後にその価値に「形態」を見出し、相対的価値形態と等価形態という明確に分離し、かつ対立しあうことで演じられるドラマの様相とは、まったく違った牧歌的な像であることが見て取れます。

 さてリカードゥは、生産関係が複雑になっていく現実をその理論のうちに繰り込むことによって、スミスの<抒情詩>の世界における使用価値と価値との融合しているかのような原像が分離して、それぞれの物語(実際には交換価値の物語)を書かざるを得なくなっていく中で、スミスの原初的な牧歌の光景だけは手放したくなかったようで、『経済学および課税の原理』の第一章を「価値について」から始め、そのリード(冒頭に置いた要約)部分でこう述べています。

 「ある商品の価値、すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働に対して支払われる対価の大小に依存するのではない。」(リカードウ『経済学および課税の原理』(上巻)P17 羽鳥卓也・吉澤芳樹訳。岩波文庫 1987年) 

 スミスが述べたように、水や空気は大きな有用性をもつが交換価値はほとんど持たず、金は殆ど有用性を持たないが最大の交換価値を持つ例にみるように、効用は交換価値の尺度ではないが、そうは言っても効用は交換価値にとって不可欠であり、まったく欲望の充足に寄与し得ず、有用性のないものは、如何にその獲得に大きな労働量を必要としても、交換価値を持たない。従って、ある商品が効用をもつという条件のもとで、リカードゥはこういいます。

 「商品が効用をもっておれば、その交換価値は二つの源泉から引き出される。つまり、その希少性からと、その獲得に要する労働量からとである。」(同前 P18)

 しかし、商品の中には希少性のみによってその価値が決定されるものもあります。珍しい彫像や絵画、稀覯本、特別な品質の葡萄酒等々がそうしたものです。これらの価値はその生産に最初必要だった労働量とは全く無関係です。しかし、それは市場で取引される商品総量の中ではごく一部を占めるに過ぎないので、「商品、その交換価値、およびその相対価格を規定する法則を論ずる際には、われわれはつねに、人間の勤労の発揮によってその量を増加することができ、またその生産には競争が無限に作用しているような商品だけを念頭におくことにする」とリカードゥは限定を付して議論を進めます。

 そしてスミスを引きながら、「社会の初期の段階には、これらの商品の交換価値、すなわち一商品のどれだけの分量が他の商品との交換において与えられなければならないかを決定する法則は、もっぱらそれぞれの商品に支出された相対的労働量に依存している」(同前 P19)としています。

 そして、スミスが価値の源泉に労働を据えたことを高く評価しながら、その考え方を一貫せず、価値の標準尺度として労働以外のものを充てるスミスに対して、あたかも労働価値説の原理主義者のように批判を加えています。

 「アダム・スミスは交換価値の本源をきわめて正確に定義した。そこで、彼は首尾一貫して、あらゆる物の価値がその生産に投下される労働の増減に比例して騰落する、と主張すべきであった。〔だが〕彼はみずから別の標準尺度をたてた。そして、物の価値は、それと交換されるこの標準尺度の増減に比例して騰落する、と説いている。彼は標準尺度として、ある時は穀物を、別の時は労働をあげている。ただし、ここでの労働とは、ある物の生産に投下される労働の量ではなく、その物が市場で支配できる労働量のことである。すなわち、あたかもこの二つのことが同義の表現であるかのように、またあたかも、ある人の労働の効率が二倍になり、したがって彼が二倍の量の商品を生産できるようになったということのために、彼が必然的に労働と交換に以前の二倍の量の商品を受けとりでもするかのように〔彼は考えている〕。」(同前 P20-21)

 他方でリカードゥは「ある商品の価値…(中略)…は、その生産に必要あ相対的労働量に依存する」というこの原理を固守しながら同時に、高度化する生産力と複雑化する生産関係の現実の前に、少しずつ修正を加えることを余儀なくされます。少し後に経済学のいわゆる「限界革命」の主役たちが明らかにしたように、発達した資本主義社会の生産関係は相互依存関係にある多くの市場ネットワークから成り、商品の価値はその相互作用の結果としての需給関係によって変化するので、リカードゥ流の労働価値説は生産技術の線形性を仮定し、労働を唯一の希少な資源とする仮定を前提としているために、複雑化した市場の諸要素が形づくる幾つもの価値体系が作用しあって一つの均衡価格をつくりだす市場メカニズムをとらえることができなかったのですが、リカードゥはその労働価値説と複雑化した現実の価格体系に生じる要素間の関係とのズレを、理論の根幹を変えず、微修正によって切り抜けようとしています。

 「前節で述べた原理は、固定資本としての、機械の使用によって少なからず修正される。」(同前 P43 第一章第三節のリード)

 「諸商品の生産に投下された労働量がその相対価値を規定するという原理は、機械その他の耐久的な固定資本の使用によって少なからず修正される。」(同前  P74 第一章第四節リード)

 「価値は賃金の騰落とともに変動するものではないという原理は、資本の耐久力が不等であること、また、資本がその使用者の許に回収される速度が不等であることによっても、修正される。」(同前 P49 第一章第五節のリード)

 それでもリカードゥはその記述のいたるところで、商品生産に投下される労働量の相対比率が変らないから商品の「価値」、従ってその「実質価格」は変わらないと、彼の原則を繰り返しています。

 こうして価値と使用価値が分化していない抒情詩的な原型を、そのまま複雑な社会条件に拡張していくリカードゥに的確な批判を加えたのが、サミュエル・ベイリーでした。ベイリーはリカードゥが固執したスミスの原型的な「価値」の「形象的な表象」であるリンゴの木に生った一個の実の価値というのは、そのもぎとられたリンゴの果実と、それをもぎとりに行って木に登り、もとのところへ帰ってくるまでの労力との「関係」として成り立っていることに着目し、リカードゥの理論が、そうした「関係」の概念抜きに、「価値」を一個の商品の属性としたり、商品に内在するものであるかのようにみなすものだとして批判します。
 
 「従って、一對象物の價値は、『その對象物の所有に由来するところの、他の諸財貨を購買する力を表現する』といふアダム・スミスの定義は、大體において正しいのである。而してこの定義は明白且つ首肯できるのであるから、これ以上形而上學的な検討をなさなくても、これを以下の吾々の推論の基礎と考へてよいであらう。
 この定義に從へば、價値にとって缼くことのできないことは、二つの對象物が比較されねばならぬといふことである。價値は單獨に、また他物との關聯なしに、考察された一物の屬性なりとすることはできないのである。一對象物の價値がその購買力であれば、購買さるべきあるものがなければならない。從って價値は絶對的または内在的なものを指すのではなくて、二つの對象物が交換されうる商品として相互に對立する關係を指すにすぎないのである。」
(サミュエル・ベイリー『リカアド價値論の批判』鈴木鴻一郎訳 p3-4 日本評論社 1941年)

 ベイリーはその著書の第一章「價値の性質について」の冒頭から、價値とは「何らかの対象物に対する評価」を意味し、「心に生ぜしめられた結果を指す」のだが、人はしばしば、色彩や芳香を外部的対象物の性質だと考える例のごとく、「感情とこれを生ぜしめた原因とに共通の名前を與へて」混同する、と述べ、價値という概念についても、対象物の一性質だと考えてしまいがちだが、それはこの種の混同による錯覚にすぎないのだという言い方をしています。

 また、彼は価値を「距離」にたとえて、或る対象物の距離の概念は、或る他の対象物を念頭に置かずには成り立たないように、「それと比較される他商品との関連において以外には一商品の価値について語ることはできない」とも述べています。

 価値の相対性を説くこうした自説への批判を意識して、次のように自問しています。

 「吾々がAの價値はBの價値に等しいといふ時は、この表現はそれぞれに内在的且つ絶對的な一性質を意味している、といふのは、さうでなければ、吾々は等一がこれら二つの價値の間に存在してゐるといふことを如何にして確言することができるであらうか?」(ベイリー 同前 p6)

 これはもっともな疑問でしょう。吉本さんが「拡張論」(『ハイ・イメージ論』所収)で述べているところに従えば、獲物Aの価値が獲物Bの価値に等しいとして、そのBの価値が全く別の獲物Cの価値に等しいとするとき、AとBとCとのあいだになにか共通なものがなければ、Aの価値がCの価値にじかに等しいと確言できないのではないか、ということですね。算数というか三段論法の形式論理でいくと、A=B、かつB=Cならば、当然A=Cということになりますが、この「=」(一般にこうした数学的な形式論理)は一面的な抽象によって成り立つものですから、現実にはA=Bの「=」と、B=Cの「=」が全く異なる意味をもち、A≠Cであることは幾らでもあり得ます。「価値」というものが欲求の充足であるとか、ベイリーのいうように「心に生ぜしめられた結果」としての感情であるとするなら、獲物Aの価値と獲物Bの価値とを等しいとする感情と、獲物Bと獲物Cの価値とを等しいとする感情とは別のものであって不思議はないし、それゆえそれぞれの等式が成り立ったとしても、獲物Aの価値がじかに獲物Cの価値に等しい、とすることはできません。

 この自問に対してベイリーは正面から答えていません。つまり、吉本さんの言い方を引用するなら、「ベイリーは、リカアドオの価値が関係という概念なしに成り立っているのはおかしいと批判することはできた。だがそれなら獲物に内在する価値はほんとに存在しえないのかどうか、あいまいなままにすぎてしまった。」(吉本「拡張論」p30)

 リカードゥを「ほんらい抒情詩であるべきスミスの価値を、そのままで物語化しようとした」と評する吉本さんは、こうしたベイリーを「関係だけあって内在的な人格のない登場人物から成り立つ物語(解体した物語)を書いた」人物と評しています。(吉本 同前 p30)

 ではベイリー自身は自問に対してどう答えたかといえば、こんな風に答えたのでした。

 「この批難に答へて次のやうに云はう、吾々がAの價値に等しいと斷言する時、吾々の表現の眞の意義を検討してみれば、吾々はそれが、AはBと交換されるといふこと以外には何ものをも意味しないことを見出すであらうと。」(ベイリー前掲 p6)

 

 これは先の自問に正面から答えるものではなく、一種の肩透かし、問題の所在をずらし、正面から答えることを回避した自答だと言っていいでしょうね。

 ベイリーは「價値の性質について」を述べた第1章の結論を次のようにまとめています。

 「1.價値といふ言葉が二つの對象物の間の一關係を指すものである以上、ある他の商品との明白または暗々裡の關聯なくして、一商品が價値をもち、または價値において變動するといふことはできないのである。その價値はある物における價値、またはある物との關係における價値でなければならないのである。
  2.二つの對象物の間のこの關係は、他方の對象物に關して變動することなしには、一方の對象物に關して變動することはできないのである。AがBとの關係において騰貴するならば、Bは依然として不變であることはできないのであって、Aとの關係においては下落しなければならないのである。
  3.一商品の價値はただある他の商品の數量によってのみ表現することができるのである。
  4.Aといふ一商品の價値の騰貴は、この商品の等量がBといふ商品 ― それとの關係においてこの商品の騰貴が云はれるのであるが、― の以前よりもより多量と変換されるといふことを、意味するのである。
  5.Aの價値の下落は、それの等量がBのより少量と交換されるといふことを意味するのである。」
(ベイリー 同前 p28-29)

 こうしてベイリーはリカードゥの「価値の物語化」が単にスミスの「抒情詩」の原型を保存したまま条件を複雑化し、多様化したにすぎないと批判したけれど、そのベイリーはリカードゥの「価値として獲物に内在する労働量」という考えを否定したため、価値が物と物との関係性にほかならない、という前提の上に、自分の物語(解体された物語)を想定することになった、と吉本さんは述べています。(吉本 前掲「拡張論」p31)

  吉本さんは、ベイリーのこの想定が少なくとも潜在的には二つのことを意味している、として、次の二点を抽出しています。

① 価値を実際の社会条件に向って複雑にするリカードゥの拡張にとって、「関係」という概念は少なくとも二つの対立する記号的な登場人物を前提としていること。(なぜなら、「関係」は少なくとも二つ以上の相互性のうえにしか成り立たないから。)
②「関係」だけで、内在的な人格のない記号的な登場人物(つまり男1、男2、男3 ・・・、とか女1、女2、女3・・・とか)によって進行する物語は、わたしたちが「形態」についてはっきりした認知をもっていれば、すぐに劇に転化されるはずだということだ。

 第二の点からは、「ベイリーがもううすこしのところまでつめていった価値の物語化を、底のほうに拡張し、劇にまでもっていったのはマルクスだといってよい」とマルクスの読みにつながっていくので、それについては次回あらためてフォローしましょう。

 この①、②の意味することを、詩や物語や劇の喩えから商品の世界へ引き戻してみれば、リカードゥの商品という概念が使用価値と価値との分岐・対立を孕んでいると同時に、市場で対立する他の商品との交換関係においてその「価値」を表現するものであり、この相互関係においては、商品はただ抽象的な人間労働が投下された交換価値としてふるまうだけですから、まったく対等で相互に置き換え可能な等しい価値の無限の連鎖が水平面に広がる世界なのだろうと思います。

 マルクスはここへ「価値形態」の概念を持ち込むことによって、抽象的な人間労働が投下された交換価値の世界でありながら、同じ世界では役割交換ができない、対立しあう「形態」のもとで「関係」づけられていく動的な世界を切り拓くことになるのでしょう。

 to be continued ・・・