Sayseiの子育て日記(再掲) 第63回  誕生日 | Sayseiの子育て日記(再掲)

Sayseiの子育て日記(再掲) 第63回  誕生日

第63回  誕生日

 わが家ではふだんから息子たちの友達は誰でも歓迎で、ドアは開けっ放し、いつも子供たちが前の道路から

  ⇒玄関⇒DK⇒居間⇒テラス⇒庭⇒共同庭⇒庭⇒テラス⇒居間⇒DK⇒玄関⇒道路

 あるいは
   
  ⇒玄関⇒DK⇒居間⇒階段⇒2階子供部屋⇒階段⇒居間⇒・・・

 という具合に、家の前から後ろへ、後ろから前へ、下から上へ、上から下へ、とドヤドヤ、ワイワイ、幼稚園から小学校低学年くらいの間は、毎日のように大勢が出入りしていました。幼稚園や学校の友達もいれば、ご近所の友達もいます。結構遠くから遊びに来ている子もありました。

 誕生日にはその中でも親しい友達やご近所で可愛がってくれている1つ、2つ年上の子にも来てもらったりして、パートナーが子供向けメニューの「ご馳走」でおもてなしをします。幼稚園くらいのときは、近所のお友達のお母さんたちが、持ち寄りで一品、二品と作ってきてくださいました。

 贅沢なことはしないけれど、いろんなものを皆でワイワイ言いながら食べるのが、子供たちには楽しくてなりません。それを眺めているとこちらも楽しくなります。 プレゼントなどは、お互いさまなので、親同士が知り合いの場合は、持ってこないようにしよう、と言い交わして、ただ、協力しあって子供たちが楽しい一日を過せるようにとお膳立てしてやります。

 そんなことも小学校の低学年までですから、ごくわずかの間です。高学年になると、知った顔は増えるけれど、親しくつきあう友人の数は逆にしぼられてきます。連れてくる友人も新顔が少なくなって、リピーターが多くなります。そして、誕生日だからといって、特別なハレの日と子供が意識することも希薄になってきます。ただ、親のほうは子供の誕生日だけは、なにかお祝いしてやりたいと思ってきました。

 私の父母がいるときは一緒に食事にいってお祝いしたり、プレゼントを渡してきたと思います。幼稚園や小学校低学年くらいまでは、絵本やお洒落な玩具でいくらでも面白いものがあって、あれもいいな、これもいいな、と迷うことが多かったように思います。

 ただ、それら特別の贈物は、たいていクリスマスにサンタさんの贈物として、子供たちが眠っている間に届けました。テディベアをはじめとする、世界一の質を誇るシュタイフの動物のぬいぐるみ人形、全部木でできた箱型の柔らかな音のする木琴、表のアスファルト道路を一直線に猛スピードで走る真っ赤なラジコンス ポーツカー、ファミコンなど、ほとんどそうだったのではないかと思います。

 それには多少の理由があります。これらの贈物はわりあい高価なものでした。親馬鹿だから、自分の月々の小遣いを越えるような値段のものを、ついあれも買ってやりたい、これも買ってやりたい、子供が喜ぶだろうな、と思うのだけれど、父親としてそういうものを衝動買いしてそのつど子供に与えたり、誕生日だからといって、贅沢な贈物をすることに、内心、それでいいのかな、という抵抗感がありました。

 それで、そういうものはみんなサンタさんのプレゼント、ということにして、見つけたとき衝動買いすることがあっても、クリスマスまで隠しておきました。
 そして、父親の私自身は、誕生日には本を贈る、というふうに決めていたのです。幼稚園のころは新しい絵本、その後は易しい物語や小説。お父さんのプレゼントは本だ、というふうに子供たちも自然に受け止めていたのではないかと思います。

 とくに、ファミコンのようなのは、当時から教育畑の人たちや教育ママたちからは、いろいろ批判もあった。
 
 私自身は、子供たちが一時期熱中しても、へんに禁止したり抑制したりしないでやらせておけば、じきに飽きるだろうと思っていたので、やらせればいいと思っていました。ただ、パートナーは、そうは思いつつも、やっぱり、あまり熱中して学校の勉強も全然やらないというようだと困るなぁという不安もあったと思います。

 私は、前にも書いたように、この種の子供たちの中で流行するものは、世代的な風俗文化現象として、洗礼を受けておくのがいい、と思っています。ただ、子供にねだられもしないのに、親が買ってきて、やれやれ、と勧めるようなものでもありません。パートナーに、なにもわざわざ買い与えなくても、と言われそうな気もしました。


 そういうのは、サンタさんが贈物に北の国から持ってくるので、父親は「サンタさんにも困ったもんだねぇ」という顔をして眺めている、というスタンスです。これなら、お母さんから一瞬、あ、という顔をして軽く睨まれる程度で、お父さんが叱られずにすみます。

 誕生日だのクリスマスだのというのは、そういうハレの日の演出ですから、大人の世界でも祭の日の無礼講のように、ふだん禁じられていることが許容されるということが何かあってもいい。それが雰囲気を盛り上げ、その日を特別な、楽しい思い出に残るような一日に変えてくれます。

 ふだん食べないお手製のケーキに蝋燭が立っている、ふだんはおねだりしても買ってもらえないものが贈物としてもらえる、ふだんは質素で丈夫な普段着で上も下もなく走り回ってどろどろなのが、ちょっとおしゃれな衣服を着せてもらう、ふだんはたくさんのお友達のなかの一人だけれど、その日だけは主役・・・等 々、何でもいいと思います。

 私たち夫婦も収入がいまよりずっと低く、二人の子供を育てていくのが楽だったわけではありません。だから、子供たちにとって特別の日であっても、こんなことをみんな用意したわけではありません。祖父母は別だけれど、私たちはふだんから子供たちにいわゆる贅沢をさせることのできる家計ではありませんでした。

 ただ、そんな中のたった一つでも、ふだんと違うハレの仕掛けが用意されていれば、きっと子供にとって忘れられない日になるのではないか。ふだんつつましければつつましいほど、そのハレの日の効果はたった一つの仕掛けでも大きいのではないかと思います。

 

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