Sayseiの京都日記(再掲) 第13回 兄弟 | Sayseiの子育て日記(再掲)

Sayseiの京都日記(再掲) 第13回 兄弟

第13回  兄弟

 

 長男が生まれてまる2年たって次男が生まれました。

 

 ちょうど義父が癌の手術を受けながら、切除しきれず、家族にとって苦しいときに妊娠。しかも、パートナーは子供がおなかの中で成長するにつれて、その重みが負担になって、若い頃からの持病である腰痛が激しくなります。

 

 腰痛の経験のある方でないと分からないでしょうが、あれは寝ていても起きていても痛いので、ただただ痛い痛いと言って海老のように身体を丸めて防御の姿勢をとっているしかないのです。ちょうど電気を通す拷問にかけられるように、腰から足先まで激痛が走り、痺れまで生じるのです。

 妊婦なので薬も飲めません。若い頃に整体で治したことがある、というので、近所の整体医のところを訪ねましたが、妊婦は指圧で治すことができないから、うちでは無理だ、と玄関で断わられました。

 

 毎夜激痛に眠りもできず、頬もげっそりして痛い痛いと呻くパートナーの傍らで、家事を私の母に手伝ってもらい、長男の相手をしながら、私にはどうすることもできず、おろおろしていました。

 

 しかし、ますます頻繁に、ますます激しくなる痛みに、このままでは次男の出産までもたないと思いました。どうしても治さなければと考え、義母の知り合いで、柔道家出身ながら整体医の資格をとって診療をはじめている人の病院へ通うことにしました。

 

 パートナーは娘時代に西洋医学ではどうしても治らなかった腰板を治してくれた名人と言われる老整体師('60年東京五輪で金をとった女子バレエチームに同行して選手の体をケアした方だそうです)にみてもらって、奇跡のように直してもらった経験があり、整体の可能性に希望を持っていました。

 

 妊娠中だから断わられるのを怖れながら訪ねると、おなかには触れず、足を指圧して治すから大丈夫とのことで、ほっとして委ねました。実際、1~2度治療するだけで、少なくともそれからしばらくの時間は、ずいぶん痛みが引いて楽になるようでした。

 

 ただ、彼の病院までは、車でも片道30分くらいかかります。それはまだいいのですが、予約制で時刻を決めてもらっていても、西洋医学のように簡単にはいかず、一人一人をじっくりと指圧などして治療するため、どんどん時間がずれていくので、予定の時刻より2~3時間遅れることが常態化していました。

 

 車で家を出て治療してもらって家に帰るには、3時間からひどいときは4~5時間もかかったのです。昼間猛烈に忙しい仕事をして帰り、夕食もそぞろに、パートナーとまだ2歳にならない長男をのせて車を出し、登録を済ませて狭い病院の待合室で2~3時間待ってようやく診察室へ。それから20~30分だったでしょうか、治療を受けて帰ります。

 

 長男は察しの良い子で、そういうときはあまり親を困らせるようなことはなかったのですが、それでも夜の狭い待合室にとじこめられて、絵本にもお話にも倦み疲れて眠ってしまうのを見ると、可哀想でなりませんでした。
 ときには、待合室を出て、夜の町の路地をうろうろしてみたり・・・たいていの店は9時ころには閉まってしまうので、ただ街灯のついた道路を長男を抱いたり降ろしたり、行ったり来たりするだけでした。

 

 そうして休みの日には必ず、これも車で30分ほどかかる病院へ、義父を見舞いに行きました。ここでも長男が義父の言葉にこたえ、頬に「チューをしてあげ」たりして、なによりも義父の慰めになってくれました。

 

 しかし、その義父は義母の献身的な介護と医師の全力での治療にも関わらず、年があけてほどなく亡くなりました。パートナーの腰痛はずいぶんよくなりましたが、父親を失った彼女は、気丈な人ですが、夜中に目覚めると、ふとんに突っ伏して泣いていることがありました。私たちにとって、ほんとうに辛い時 期でしたが、その辛さを耐えさせてくれたのは、明るく元気に育っている長男であり、また、次に生まれてくる子への希望でした。
 
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 次男は自宅から車で10分ほどの、わりあい大きな病院の産婦人科で生まれました。私立ですが、キリスト教系の病院で、医者も看護婦もみな優しく、親切でした。

 

 ちょうどひな祭りの日だったので、きっと女の子だろう、などと思いながら待っていると、あと小一時間で日づけが変わろうという夜遅くになって生まれました。こんども体重はそんなに重くなく、小さめの子だったので、楽な出産だったようです。

 

 保育室の窓ごしに、看護婦さんから、あれですよ、と見せてもらうと、角度のせいか、すごく豪傑のような感じに見えました。

 例によって、男性でも女性でも通用するような、一字で末尾に「み」のつく、やさしい響きの名を考えていたので、あ、ちょっとイメージちがったかなぁ、などと思いました。パートナーに「もっと男っぽい名前につけ直そうか?」と言うと、「そんな可哀想な」と言われ、そのままになりました。

 

 いまでは、けっこう繊細な青年に育ち、あのとき名を変えなくてよかったと思います。

 

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 二人目は楽だと言いますが、それは親の気持ちが楽だからでしょう。一人目で、赤ちゃんはこういうもの、とある程度見当がつくようになっているので、少々のことでは右往左往しなくてすむからです。

 

 あまり安心しすぎて、泣いてもほうっておいたら、タオル布団が顔をすっぽり覆って、のけようともがいてますます自縄自縛になって苦しんでいるのをみつけて、反省したこともあります。

 けれど、概ねそんな感じで、赤ん坊のときの次男は、中耳炎になりかけたとき以外には、ほとんど不安を生じた記憶がありません。これも風邪をひいたときに、あまり深刻に考えずに、耳だれが出てくるまで気がつかなかったのです。

 

 次男にあまり気をつかわなくて済む分、私たちは長男に多くの気をつかった、というのが実情です。

 

 弟ができる、ということは色々な形で話してやり、一家そろって喜び、歓迎しよう、という雰囲気をつくっていたので、長男も弟が生まれることを楽しみにし、実際喜んでくれましたし、可愛がってくれました。

 しかし、それまで自分ひとりが中心であった世界に、もう一人同じような存在が侵入してくるのですから、彼の精神にとっては、それはもう大事件だったはずです。

 

 私たちは彼をほうっておいて次男にかまうということを極力避けて、いつも彼と一緒に次男の世話をし、次男が寝付けば、彼とすべての時間を共有するというほど、彼の気持ちの負の部分を拡大しないように気を遣ったと思います。

 

 徐々に次男が動けるようになり、一緒に遊ぶようになると、長男は本当によく次男の相手をして遊んでくれるようになりました。次男がわけの分からない言葉を言うときは、長男のほうに訊くと、「○○したいんとちがう?」というふうに次男の意思をホンヤクしてくれて、それが不思議にあたっていました。私たちには分からなくても、子供どうしで分かるところがあったのでしょう。

 

 ほとんど喧嘩しない仲のよい兄弟でしたが、それでも、どちらもがまだ幼児であったとき、長男が次男をかまいながら、時にすごくきつい、意地悪そうな表情をすることがありました。自分で抑制しているのですが、嫉妬心が顔を出す、というような表情でした。そういう表情をできるだけ見せずにすむようにしてやろう、できるだけ彼の気持ちを開放してやる機会をたくさん持とう、というのが、そのころの私の気持ちでした。

 

 ふつうは、下の子が赤ちゃんで弱者なので、そうは言っても、結果的に下の子のほうに面倒見の比重が傾きがちなものだと思います。私たちはむしろ極端に長男に比重をかけたかもしれません。それぐらいで、ちょうどいいと思ったからです。弟の誕生は、それほど幼い兄にとって、きつい出来事ではないかと思います。

 

 母親は授乳ということがあるので、どうしても次男が独占する時間があります。それをできるだけ目立たないように、その時間を長男が別のことに気をとられて楽しく過ごせるようにしてやれればやれるほどいいと思いました。

 休みの日の父親の役割はそんなところにあったような気がします。

 

 その後も、パートナーと二人でよく「ほんとうは邪魔者やと思ってんのやろなぁ」と半ば冗談で言うような場面に出くわしたものです。けれど、長男はとてもいい兄貴を演じ、喧嘩をしてもたいてい力任せの次男のほうが上になっていました。

 

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 物心がついてからは、面白いことに気づきました。ときどき、なにかの事情で、私と二人のうちどちらかとだけで留守番するようなことが出てきます。 そんなとき、私は残ったほうの手をひいて、近くの駄菓子屋へいき、子供の好きな菓子だとかアイスクリームを買って、一緒に食べます。

 

 「これはお母さんと弟にはナイショだぞ」

 そういうと、兄貴は「うん!」と言って、実際、弟には与えられない機会を与えられて得意満面、ほんとうに嬉しそうに特権を享受し、約束を守って言いません。

 

 「これはお兄ちゃんにはナイショだぞ」

 弟のほうに同じようにそう言うと、彼はとても不安そうな表情をみせます。喜ぶかと思いきや、全然そうではなくて、なにか後ろめたそうなのです。何も言わずに彼にだけ買ってやるときでも、「お兄ちゃんのは?」と訊いたりします。

 

 いつも子供たちと接している駄菓子屋のおばさんによれば、どこのうちでもそうなのだということです。つまり、兄貴のほうは自分さえ貰えばOK。弟の分があるかどうかなんて気にしない。ところが、弟のほうは、自分だけ貰っても不安で、兄のことが気になる、というのです。

 

 兄弟のなかった私は、なるほどなぁ、と感心して「先輩」の言葉を拝聴したものです。

 

 兄にとって、弟はもともと存在しなかったのに、あとで現われて、自分が独占していた母親を半分奪ったやつ。自分の自足していた世界を半分こわしたニックキやつ。他方、弟にとって、兄は自分がものごころついたときには、両親と同じようにもうこの世界の一部としてそこにあったもの。動かしがたい確固としたもの、ということなのでしょうか。

 

 いろいろあったけれど、概ね仲良く、とくに幼いころはいつも一緒にいて、弟が兄の真似ばかりしてついてまわっていた兄弟は、20余年を経て、互いに会うことがあっても、あまり喋りあうこともありません。

 しかし、弟はいまも「お兄ちゃんはどうするの?」と兄が近くに帰ってくる日のことを気づかい、兄は「あいつのほうが金がかかるから、俺はいいよ」と弟を思う、いい兄弟のままでいてくれました。

 

 たまたま弟のほうが早く結婚することになり、そのパートナーと一緒に食事をするときには、これまで次男の友人が来ていても黙々と食べていた長男が、けっこう気をきかして色々なことを話して会話するなど、オトナになったな、と感じさせてくれるようになりました。

 

 一人っ子だった私は、親の目というより、同じ目線で、そんな兄弟を羨ましく思ったりします。

 

 

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