阪神タイガース優勝パレードが決まった早々に決めた九州ひとり旅(笑)
11/22水曜日のフェリーでw
11/23 勤労感謝の日の朝に大分県着。
コロナ前に実家に置いてきたクラシックギター「マルティネス」回収と法友のお墓参りがメイン。
還暦を迎えた今年、体調を崩したり、定年後の再雇用でまだまだ働いていたり、還暦同窓会も2/10との連絡が来て即、断念…2/11建国記念日からインドです…💦
墓参りと言うと大抵「実家の」と思われる。。。友達が夫婦ともにもうあの世なんです(T ^ T)
旦那様は50歳になる年にガンで他界。
その後、色々落ち着き始めた頃に法友も57歳で他界…コロナ禍だったので行けず、、、泣き続けました。
知らずに出していた年賀状の返事を娘さんから頂いて更に更に手紙も書けないほど泣きました…娘ちゃんの文字が法友そっくりで信じられなかった。
次は知恩院の檀家信徒さんが泊まれる宿坊に泊まろうね💕と約束してからの
コロナ。
娘さんはウチの息子と同じ歳だし・・・あの二人は娘さんをとても可愛がっていて何度も名前が出てくる。そしてまた、旦那様のご家族、お母様がとてもとてもチャーミングな美人で、その娘、他界した旦那さんの妹さんもそっくりで、息子と同い年の娘さんも笑えるくらいソックリで(笑)
ホンとに笑いの絶えない友家族友。
それがもう居ないなんて、人生100年時代と言われているのに、もう居ないのは悲しすぎる。
彼女からの最後のメッセージになった「お墓の場所」に11/23に存分に行ってきました。
静かで良い場所でした。
草むしりをしっかりして、お供えして、お線香炊いて、お水供えて、命日もしっかり分かって、本当にもう人生を卒業したんだな~ここは空が近いね(涙)
静かだね、本当にもう居ないんだね(涙)
友が亡くなるって、こんなにも悲しい事だったんだと思うとともに、楽しかった場面が次々に浮かぶ。
生きていてくれるだけで良かったんだと改めて強く思った。
小学校の時の同級生だった彼女と、高校の時の同級生の友だった旦那くんが結婚して娘ちゃんが産まれた。
地元の中核の友が、地元に居てくれることで私は「ふるさとはここだ」と思っていた。
2人のいない地元はもう単に「生まれ育った場所」ってだけになった。
知らない街になっていく「ふるさと」になった。
60歳、還暦。
親友も体調を崩している。
コロナ禍直前に親友のお母様の他界で福岡に。
死んでしまいたいくらい嫌だった高校生活の中で快く私を受け入れてくれた親友家族。そして私の気持ちをご両親が、うちの両親に話してくれた。
それだけで救われた。
すくなくとも今まで生きてこれた。
だからと言ってもいい、だから私は実家に戻らなかった。
広い実家なのに、私の居場所は無くなっていたし、両親の仲は良いのだけれど、都合の悪いことは全て「私のせい」と言われることが、死にたくなる原因だった。
居心地の悪い家と家族だった。
離れることで私は安定した。
1995年の1/17の震災の時も実家に戻る決心はつかず、孤独に孤高に生きてきた。
居心地のいい時間がない訳ではないが、近くにいる実妹は私の大切にしているモノを「これいいね!」と勝手に持っていく・・・断りもなしに・・・その繰り返しも不安のタネで、離れていて正解だったと今も思う。
10月に実家のピアノを妹宅に移動したようだ。
母は「あのピアノは、貴女たち二人のものだから話し合って決めて」と言っていたが、妹は「自分のモノ」と思っているので、話し合いも無く妹宅にピアノは行った。
そういうのも家族なんですよね。
母も米寿を迎えたのだから、妹たちが面倒見ると言っているので行けばいいのに、アレコレ理由をつけて、あの広い家でひとりで生活している全く信じていないまんま。
ピアノを運び出した時に、クラギも親せき宅に持って行ってくれたのだろう。
お墓参りの後に親せき宅にギターを回収しにいった。
子どもも3人目が産まれて、三世帯同居で仲良く暮らしていた。
お姉ちゃんも元気そうで嬉しかった。
子どもたちも懐いてくれて嬉しかった。
宿は大宰府の温泉旅館を予約していたので、月を見ながら疲れを癒しました。
11/24チェックアウト。熊本に走り、旦那くんたちと言った阿蘇の喫茶店でギリギリまでまったり。マスターもガタが来ているで1年か2年か3年か・・・店は辞めるそうだ。
大分までの新しい道がガンガン出来て開通していた。
実家には寄らないけどまた行きたいな💕