映画批評「パシフィック・リム:アップライジング」 81点 | SayGo's 映画レビュー

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勝手に映画鑑賞して
ダラダラとレビューします。

「中弛みするもジャパンポップ・カルチャーへの愛に溢れる作品。ある演出に涙!」

巨大な生物が都市を舞台にぶつかり合う「怪獣映画」。
二足歩行の巨大ロボットによる熾烈な戦いを描く「ロボットアニメ」。
そんな世界が認めるふたつの「ジャパニーズ・カルチャー」を
ハリウッドが本気を出して製作された「パシフィック・リム」。
その衝撃は今でも新鮮なもので、
なにより監督を勤めたギレルモ・デル・トロの
ジャパニーズ・カルチャーに対する敬愛に喜びを覚えた。
全世界はもちろんのことだが、「日本待望」の続編が公開になったわけで ー

巨大兵器イェーガーを駆使した人類とKAIJUの激闘から10年。
世界を救った英雄 ペントコストの息子 ジェイクは、
治安の行き届かぬ地で生活のために違法なイェーガーパーツ売買を行っていたが、
違法イェーガーを作る少女 アマ―ラと共に逮捕されてしまう。
刑務と引き換えに環太平洋防衛軍のパイロッド養成所に移送されることになった2人は
いつしか、世界の存亡を掛けたKAIJUとの戦いに身を投じて行くのだった。

「パシフィック・リム:アップライジング」


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2013年に公開されたSFロボットアクション「パシフィック・リム」の続編。
ドラマシリーズ「スパルタカス」のスティーブ・S・デナイトを監督として抜擢。
「スターウォーズ フォースの覚醒」でスター俳優となったジョン・ボイエガ主演。

最近の俗に言うハリウッド超大作、主にMCUでは、
インディーズ映画監督、もしくは低予算映画監督を抜擢する系譜があるが、
それでもあの「パシフィック・リム」の続編を
「ギレルモ・デル・トロ監督」で撮らない事実を知った時、
喜びよりも「大丈夫なの?」という不安の方を強く感じてしまった。

なぜならば、「パシフィック・リム」は
日本の特撮やアニメを誰よりも敬愛し、
そのコレクターとしても名高いギレルモ・デル・トロだったからこそ
成し得た作品だったと思うからだ。

しかし、結果から言えば、その不安は単なる先走りだった。
個人的には前作よりも圧倒的に好きだし、
なんならギレルモ・デル・トロの作った立派なレールをなぞるだけでなく、
悪く言えば「安易」でもあるが、
ストレート且つ「THE」の付きそうな
「ロボットアニメ」「怪獣」映画へのリスペクトを加えた
スティーブ・S・デナイト監督の演出が
続編としてのスケールアップを成功させていたと思う。


強盗で生計をたてる主人公 ジェイクと
政府に隠れて違法イェーガー(巨大ロボット)を製作する少女 アマ―ラ。

そんな社会カーストにおける底辺にも近い存在でもある2人が出会い、
それぞれが成長することで、世界を救う英雄へとなる本作の物語は、
監督がインタビューで答えるように
「誰しもが世界を救える存在」であることを示すもので、
「何者でもない主人公がいつしか英雄となる」
そんな日本ロボットアニメが世界から愛されているように
「誰でも楽しめる」家族映画にも仕上がっていたと思う。

そんな馴染みのあるエンターテインメントは、
新鮮味がなくとも「面白い」と言わせるアベレージを持っている訳だが、
前作の存在が大きい分、賛否は別れるのも事実であろう。

ネットでも、上映後の劇場でも
「つまらなかった」という声が上がるのは、
個人的な見解だが、クライマックスに至るまでの
「善悪の明確でないストーリー展開」にあると思う。

街を破壊し、多大なる犠牲をもたらす描写で
「KAIJU」とそれを地球に送り込む異種族「プリカーサー」を
誰が見ても絶対的な「悪」として描き、
それに立ち向かう人類を「善」として見せた前作は、
冒頭から「人類vsKAIJU」という明確さが存在しており、
最後まで迷いないストレートなエンターテインメント性を打ち出した。

しかし、本作はそれと意図的に差別化がなされており、
「人類vsKAIJU」ではなく、
「主人公と政府機関」や「防衛システムを巡る権力争い」にまずスポットしていく。

その物語は本シリーズの魅力ともなるバディー要素を描き、
「未確認イェーガー」の存在が繰り広げる
「イェーガーvsイェーガー」というファンの期待に応える展開も見せるわけだが、
「敵」という存在が明確でなく、
散りばめられた「謎」が疑心暗鬼にさせる「含み」を物語にもたらす。

決して「複雑」ではないわけだが、
前作のこれ以上になくストレートなエンターテインメントには欠けているのは事実だし、
敵が明確でないゆえ、物語のベクトルが不安定な中盤には正直中弛みを感じてもしまった。

しかしだ。それでもだ。
「敵」の存在が露となり、「KAIJU」が進撃を始め、
そこでやっと「パシフィック・リム」のテーマ曲が流されてからは
もうテンション爆上がりです!

「そうだ!東京へ行こう!」というような東京での最終決戦。
はたまた、その決着が富士山ともなれば、
確かに言いたいことは少なからずあるが、
日本人なら絶対に興奮するだろう。

多種多様な特徴性能だけでなく、スリム化の成されたイェーガーデザインは格好が良く、
また、「巨大兵器」ならではの重量感と渋さを感じるロボットアクションから、
街を飛び回るようなスピード感とアグレッシブさを見せる
本作のヒロイックなロボットアクションは
今の日本のロボットアクションの流行に確かに乗っており、
前作とは異なる「新しいエンターテインメント」を打ち出す。

そして、なによりもやはり日本人には嬉しく、
また面白いのはジャパニーズ・カルチャーへの敬愛に満ちたオマージュと
その理解が生んだ「映画演出」に、自分は時に涙してしまった。


ジャパニーズ・カルチャーへのオマージュは本作には山ほどあるわけだが、
自分がその中でも一番に感じたのは
やはり「新世紀エヴァンゲリオン」に通ずる人物配置や、物語展開。

英雄の父を持つ主人公がその運命に抗いながらも、
最終的に世界を救うヒーローになるという基本の物語は、
やはりエヴァの主人公である碇シンジを彷彿とさせるし、
遠隔操作が可能な量産型イェーガー=ドローンイェーガーの
デザインや特性は量産型EVAに等しい。

少し展開こそ違えど、中盤にある物語展開は
新世紀エヴァンゲリオン第七話「人の造りしもの」のアレンジにも思えるし、
なんなら「生物」的な姿が露出するだけでなく、
量産気が集い、世界崩壊の扉を開けるという展開は
ファンなら一見して「Air/まごころを、君に」の
量産型EVAにその姿を重ねるだろう。

前作でも新世紀エヴァンゲリオンへのオマージュは
ロボットシステムそのものから存在していたが、
本作ではそれがより一層明確になっている印象で、
EVAファンなら、その実写化を見ているような喜びを覚えてしまうだろう。

そして、誰が見ても日本怪獣映画へのオマージュとして認識できるのは、
クライマックスの戦いの舞台が日本、しかも「東京」であるということだ。

日本の怪獣映画は数多く製作されてきたが、
やはり「東京」という舞台はその代名詞ともなっているわけだが、
大胆にもそこでクライマックスの死闘を繰り広げていく。

富士山にまでその手を広げる部分は、
強引且つ安易でもあるが、なにより日本怪獣映画への愛を語っており、
また、
「合体怪獣」という「ウルトラマン」要素や、
もっと言えば、ひとつの敵を複数体で協力して倒すという「スーパー戦隊」要素など
多岐多用なジャパニーズ・カルチャー表現を盛りだくさんに織り込んでいく。

「これはあれだ!」という発見の連続は日本人なら楽しくてしかたがないだろう。

加えて、ジャパニーズ・カルチャーを単にオマージュするだけでなく、
それを理解しているからこその映画的演出があるもの見所だ。

まずは、イェーガーや怪獣の「巨大さ」を
段階を経て表現することで助長していく演出と物語展開。

ロボットにしろ、怪獣にしろ、
その「大きさ」が驚きや恐怖表現に決して比例はしない。

超高層ビルに肩を並べるほどのロボットと怪獣が戦えば、
それは映画に確かなスケール感を与えるものの、
反して、そのかけ離れたスケールにあまり恐怖心を覚えない。
要は、「フィクション」として認識してもしまうのだ。

しかし、ロボットや怪獣が人に近い10m級の大きさであれば、
スケール感こそ減退するものの、
その「身近さ」がロボットや怪獣にリアリティを与える。
要は、自分と比較できる「大きさ」であればあるほど、
ロボットの「大きさ」を体感でき、
怪獣は「食べられる!」という本能的な恐怖心を煽る存在となるのだ。

そんな「大きさ」表現を用い、
「身近な恐怖」と映画としての「スケール感」を両立させたのが
「シン・ゴジラ」なわけだが、
本作でもその「大きさ」表現を段階的に用いている。

冒頭で登場する「小型イェーガー」の存在は、
その身近な大きさがリアルな「感動」や「驚き」を表すだけでなく、
追ってくる「イェーガー」の大きさをリアルに見る者に体感させるのだ。





最初から、街を見下ろすほど大きい「イェーガー」が登場すれば、
確かに「デカイ!」と思えるわけだが、
まず「小型イェーガー」を登場させることで、比較対象を置くことで、
「もっとデカイ!」という驚きを与える。

そんな段階的な大きさのインフレ演出は、
機動戦士ガンダムで言えば「ビグザム」にもあるように、
これもまた日本のロボットアニメの代名詞でもあるわけだが、
「大きさ」がその者の「強さ」に比例して表現されていることで、
「ピンチ」という展開を作り、戦いを盛り上げるのも魅力だ。

「小型イェーガー」と「巨大イェーガー」の戦いは
明らかなまでに「大きい方が強い」という法則を
見る者にサラッと植え付けるわけだが、
その大小演出が「巨大イェーガー」よりも数倍デカイ「合体KAIJU」を
より一層「最強」の存在に仕立てあげ、
確かな「ピンチ」を描くため、クライマックスは盛り上がりを見せる。

段階的な大きさのインフレ演出を用いることで、
「強い者」との比較で「より強い者」の存在を、
「より強い者」との比較で「もっと強い者」の存在を強調していく。
王道ではあるが、
それは確かな計算とジャパニーズ・カルチャーへの理解が生んだ
ロボット&怪獣映画らしい演出だと思う。

また、冒頭に登場した「小型イェーガー」が最後に活躍するという
アイデアも非常にいい!
ただ。ただ、ひとつ言いたいのは、
「小型イェーガー」をアマ―ラが操縦してほしかった!

アマ―ラは訓練の最中、ある女訓練生と衝突し、
作り上げた小型イェーガーを直接的にバカにされる。

2人は訓練生活の果てに和解をするわけだが、
そこで和解するのではなく、
クライマックスの絶対的なピンチの中で
アマ―ラの操縦する小型イェーガーの活躍を目の当たりにして
認められ、和解してほしかった。

そうすれば、もっとロボット作品としてクールだったように思える。

あれやこれやと他にもいろいろ書きたいことはあるのだが、
最後にもうひとつ書きたいのは、
自分がある演出で泣いてしまったという事実。

主人公であるアマ―ラはイェーガーのパイロット訓練を受けるわけだが、
イェーガーを操縦するに当たって彼女を悩ませ、妨害するのが
「KAIJUに家族を殺された」という幼少期の過去。

家族との休日の最中、突如現れるKAIJU。
KAIJUは橋を崩壊させ、アマ―ラと家族を引き離し、
父親は「飛べ」と手を差し伸べるも、アマ―ラ恐怖心から飛ぶことができず、
その結果、目の前で家族が踏み殺されてしまうのだ。

その記憶を克服できないアマ―ラは、
イェーガーを操縦するために必要な「シンクロ」をすることが出来ない訳です。

そんな彼女が記憶を克服した瞬間を
この作品は映画的且つロボットアニメらしい展開を用いて表現する。

あまり言うと、映画を観たときの感動がなくなってしまうのでざっくり記すが、

絶対的なピンチの状況で、
アマ―ラは、「無理だ」「やめろ」という制止を押しきって、
「道を絶たれたある場所」に向かって彼女は「飛ぶ」のだ。

「飛べ」と言われても恐怖心から「飛べなかった」ことで
大切な人を失ったアマ―ラが、
人類を救うため、自らの意思で「飛ぶ」のだ。

アマ―ラを苦しめていた過去と状況を重ね合わせ、
「飛ぶ」というひとアクションで
彼女の「過去の克服」と「成長」表現したこのシーンは
名シーンとしか言いようがない。
自分はその演出に涙が止まらなかった。

ここに気づかないと、
作品の見方が大きく変わってもしまうほどの演出であると思うので、
そこだけは是非注意して見てほしい!


「富士山そんなに近くないよ!」
「まだ、住民避難しきってないだろ」
はたまた、「あの基地の謎は?」など、
山ほど突っ込みどころはあるが、
それでもジャパニーズ・カルチャーへの愛に満ちたロボット怪獣映画。

「敵が明確でない」ことで中弛みを感じる部分は確かにあったものの、
リアルで渋みを感じる前作のロボット表現と異なる、
スピーディーでヒロイックなロボットアクションを
確かに楽しませてくれる良作だった。

★★★★★