新学期を気持ちよく迎えようと、塾の片づけをしているのに、一向に進まない。
なぜだ?
そのわけは、春期講習をやりながら片づけを進めているからだ。
同じ場所で、同時進行で物事を進めるとぐちゃぐちゃになる。
同じテーブルで、ものを食べたり、勉強したり、本を読んでいるようなものだ。
なんか、身辺が落ち着かない。
でもそれって、散らかっている言い訳にしてないか?
反省します。
新学期を気持ちよく迎えようと、塾の片づけをしているのに、一向に進まない。
なぜだ?
そのわけは、春期講習をやりながら片づけを進めているからだ。
同じ場所で、同時進行で物事を進めるとぐちゃぐちゃになる。
同じテーブルで、ものを食べたり、勉強したり、本を読んでいるようなものだ。
なんか、身辺が落ち着かない。
でもそれって、散らかっている言い訳にしてないか?
反省します。
最近、感動的な話(もちろん実話)によく出会う。
そのような本を特に選んでいるわけではないのに。
また、いくつかの携帯のメルマガでも最近、よく泣かされる。
年食って涙腺がゆるむとはよく聞く事、にしても最近多いのではないか。
一時期、人前で涙を流すのはみっともないのではないか、という想念にとらわれてて、我慢をしていたこともあった。
でも、それは余計なやせ我慢であったようだ。
泣きたいときに泣く。
たとえその元になったお話しの出来具合がいまいちであるとかどうとか、そんなことはこの際問わない。
泣くぐらい感じ入ったのだから、そこには自分の琴線に触れる何かがあったのだろう。
心置きなく泣かれよと
年増の低い声もする
ああ、これは、中原中也だ。
ジャーナリストの有田芳生(ありたよしふ)さんのミニ集会に参加してきました。
懇意にしている古本屋さんからのお誘い。
「なぜ有田芳生なのか?」と思ったけど、めったに合えないテレビの人なので、参加です。
でも、有田さんは2年前にテレビのお仕事はやめていると今日のお話で知りました。
そう?、なんか、ワイドショーでコメンテーターしてたような?
あれって、もう2年前?
さて、今回の集まりは、選挙を意識したものだとか、こじんまりとした集まりでした。
東京なんかじゃ珍しくもないのでしょうけど、テレビなどで知られている人が来るというのは地方じゃめったにないこと。
有田さんの政治にかける姿勢というか、なぜ政治家になりたいのかそのきっかけからお話は始まりました。
その後質疑応答。
司会者(私を誘ってくれた、古本屋の若手女性経営者)から振られて、長々と話してしまった私。
以下に普段人と話してないかばればれ。
いかんいかん、と毎度のように反省するも、もっともっとしゃべりたかった。
健全な議論の場っていいよね。
有田さんは、気の良いおっちゃんでした。
いわゆる「アク」の強さなんてなく、政治家としてやっていけるのか?心配になるくらいです。
でも、新しい時代に新しい政治家が求められているのでしょう。
最初っから「政治家になりたい」と思ってきた人種とは違うところ、そのへんが有田さんの強みでしょうか。
日本に刺激を与えられる人かも。
今年の卒業生からの手紙を読んでいました。
決まり文句のようではあるけれど、「先生のおかげで合格できました。ありがとうございます。」とあるとうれしくなります。
定番ですね。
でも、最後はその生徒の力。
最後の最後、ね。
私の指導の何がよくて、何が悪かったのか?実は私自身よく分かりません。
運命論者みたいな言い方をすると、合格する生徒は合格していく、ということでしょうか?
よく自己啓発とかスピリチュアル系の本に、「すべては必然でベストのタイミングで起こる」という意味のことが書いてあります。
「すべて」かどうかはともかく、合格・不合格いずれにせよ、それは、その生徒にそのとき必要なことだったのだ、という考え方には、首肯したい何かが確実にあるような気がしています。
私自身の大学入試がそうでした。
望んだ大学ではなかったものの、その後の人生はものすごく「正解」だった。
あれがほかの大学だったら、1年ずれていたら、あんな経験もなかったろうし、あいつに出会うこともなかったろうと考えると、あの大学で正解だったのだ。
本当に、かけがえのない貴重な経験が私を待っていた。
もちろん、あのときに違う選択をすれば、もっと充実した人生というものもあったかもしれない。
けれども、あれがやはり自分のベストではなかったか?
過ぎ去りし日々を思い返しては、「すべては必然でベスト」という語句を反芻しているのです。
ついさっきふと思ったこと。
生徒からの質問は、紙に書くようにしたらどうか。
先生が、ではなく、生徒が。
つまり、質問は紙に書かないと受け付けないよ、という具合にするのだ。
なぜかというと、自分が何が分かってないのかがそもそも分かってない質問が多いからだ。
自分が分からないことは何か?
これが意外と分かってない。
たとえば、算数・数学の文章題。
「先生、この問題が分かりません」と質問が来る。
「どれ?」
「3番」
「3番の何が分からないの?」
「?」
「3番のどこが分からないの?」
「・・・・・全部」
「ほんとかぁ?
じゃあ読むぞ。
何々?、『花子さんは時速4キロメートルで歩いていました。』
お前これ分かる?」
「分かります。」
「分かってるやん!全部分からないんじゃないでしょ?それで?」
こんな風に、これでもかっ!ってな感じで分解して聞いていくと、その生徒の本当に分からないことがはっきりしてくる。
また、そうやって文章題の意味を解きほぐしていくと、急に生徒が、「あっ!分かった!」ということもしょっちゅう。
日常茶飯ですわ。
だったら、生徒に自分の分からないところを具体的に細かく見つけさせて、しかもそれを文章化させる訓練をさせてみてはどうかと。
ビジュアル化でもいいよね、文章題だったら。
質問する力、うん?違う。
「質問できる力」かな?
そういったトレーニングも必要だよね。
知る人ぞ知る『メッセンジャー』30号が届く。
がん患者だったけれどもがんを克服した人、がんサバイバーの人たちの生き様を中心に取り上げている雑誌だ。
編集長ならぬ変酋長である杉浦貴之さん自身が「がんサバイバー」。
今号の特集は「命の誕生」。
出産・誕生にまつわる実体験がいくつも紹介されている。
毎号涙なくしては読めない、そんな雑誌。
でも、変酋長の肩書きは、「シンガーソング・エロ・ランナー」。
打ち間違いではない。「エロ」
その意味するところは、実際にこの雑誌を手に取ってもらうしかない。
ニュートンは、「科学者」ではなかった。
「物理学者」でもなかった。
では、何?
答えは、「錬金術師」。
という話を聞いたことがある。
ニュートンがやりたかったのは、鉛を金に変える錬金術。
でも、できなかった。
だから、ニュートンの人生は、成功したものではなかったというお話。
でも、その錬金術が近代科学の扉を開く。
さて、今日では、加速器を使い、鉛から金を作ることが可能となった。
ただ、それには莫大な費用と時間がかかる。
今日の朝日新聞によれば、
鉛原子を光速の7割程度まで加速して、ベリリウムなどの標的に照射すると金ができる。
とはいえ「現在可能な最大強度の鉛ビームが得られたとして、金1グラムを作るのに10万年、電気代は100兆円ほどかかる」
そうだ。
金1グラムに、10万年と100兆円!
ところが、今日の朝日新聞の記事は、まったく違った手法で、ある原子から別の原子を作る「現代の錬金術」を紹介している。
何でそうなるのか私にはよく分からなかったのだが、なんでも、アルミニウム原子の塊(クラスター)を作り、酸素原子を反応させると、あら不思議、その塊は、ヨウ素分子のまねをしだしたというのだ。
この現象を発見したのは、アメリカのペンシルベニア州立大のウェルフォード・キャッスルマン教授。
20年ほど前に発見したらしい。
このような別の原子のまねをする塊、クラスターは「超原子」と呼ばれるようになったという。
キャッスルマン教授たちは、ほかにも別の原子のまねをする「超原子」を作り出す実験を続けた。
その結果、チタン原子と酸素原子でニッケル原子をまねる「超原子」を発見したり、タングステンと炭素で白金をまねる超原子を発見。
すごいけど、まだまだ量的には少なく(100万分の1グラム程度)、今後の研究に期待がもたれている。
でも、すごい、なんで?
原子そのものが変わるわけではないのに、ふたつの原子が組み合わさって、かたまりになっただけで、別の原子のような性質を示すなんて。
これって、もしかして、「プリンにおしょうゆをかけたら、うに」ってやつ?
運動不足がたたったのか、腰痛。
右の腰の辺りがなにやら痛い。
きりきりとさすような痛みではなくて、じわーっと痛い。
鈍痛というやつでしょうか?
ぎっくり腰の経験はないものの、私は腰痛もち。
運動不足とか、何かの拍子に「ぐきっ」と来るときがあります。
うずくまって歩けなくなるというほどではないんです。
でも、痛い。
「腰痛は怒りである」とか言う本があって、立ち読みしたところでは、何でも怒りが血流に影響して、加えて神経系にも作用して「腰痛」になるのだとか。
ちゃんとした医学博士というかお医者さんが書いてます。
でも、
これだけじゃ何のことか分かりませんよね。
ところが、同じようなことを言っている人がほかにもいるんですよ。
なので、腰痛は、単なる身体的な事柄が原因で起こるものではないらしい。
うーん、で、私のこの腰痛も「怒り」なのか?
誰に、何を怒っているんだろう?
パンクロックバンド「ブルーハーツ」の名曲、『リンダ リンダ』は、今僕が手に入れられるものの中で、最高の「詩」のテキストです。
まず、曲はゆっくりと始まります。
なぜか?
それは聞いている人にたっぷりとイメージしてもらいたいから。
そして、詞の内容を考えてほしいから。
こんな風に始まります。
(詞):ドブネズミ
文字で書くとこうならざるを得ないのですが、実際の歌では、本当にゆぅっくりと、
ドォブゥネェ~ズミ
と始まるのです。
ここで聞いている人はイメージすると思います。
「えっ?ドブネズミ?なんだよそれ、キタネー」
たいてい、ドブネズミに対するイメージってそんなものですよね。
「キャーッ、かわいい!触らせて!抱かせて、いやーん、やわらかい!」ってな感じではないと思います。
で、この後どう続くかと言うと、
(詞):みたいに
ここで聞いている人はイメージを確かなものにしていくと思います。
「うんうん、ドブネズミだもんなあ、汚いとか、不潔とか、バッチイとか、そんな言葉が来るんだろう」
そういった大方の予想を裏切って、歌詞はこう続くのです。
(詞):美しくなりたい
ここでたいていの人はびっくりするはずです。
「えっ?ドブネズミみたいに美しくなりたい?」
その驚きはすぐに疑問へと高まります。
すなわち、曲にひきつけられるのです。
「ドブネズミみたいに美しくなりたいって、どういうことだよ?早く教えてくれ!」
歌詞は続きます。
(詞):写真には写らない
美しさが
あるから
ここで聞いている人は考えます。
「写真には写らない美しさって何だ?」
その答えは、それほど難しいものではないと思います。
それは、「外見からは見えない内面の美しさ」ということでしょう。
この後、曲は急にアップテンポに変わります。
たたみかけるように「リンダ」の連呼が続きます。
(詞:)リンダ リンダ リンダ リンダ リンダ リンダ ・・・・・・・
今歌詞カードで確認したら、この「リンダ」は書いてありませんでした。
でも、おそらくは恋人の名前なのでしょう。
(じゃなかったら。連呼する意味がないですよね)
では、なぜ「リンダ」なのか?
これは恋人についてのイメージだと思います。
個人的には、「リンダ」って聞くと、快活な女の子、それこそ髪をポニーテールにして、すそがパラソルみたいに膨らんだスカートをはいて、っていうイメージ。
音(オン)もいいですよね。「リンダ」
前半の「リン」はかわいらしく、可憐なイメージ。
それが濁音の「ダ」で引き締められて終わる。
「ダ」は同じ濁音でも「ザ」や「ガ」と違って、耳障りな感じ出しません。
この濁音があることで、アップテンポで繰り返しても名前が曲にかき消されません。
「メアリー」とかだったら弱いですよね。
「キャサリン」とか「アンジェリーナ」は長すぎて連呼には向きません。
それに、ここで日本人の名前を出すとイメージが固定されてしまう。
それも、「うちのお母さんと同じ」とか、下手すると「去年なくなったおばあちゃんの名前だ」ということにもなりかねません。
さらに、日本人の名前って、もしかしたら「連呼」しづらいかも。
「けいこ、けいこ、けいこ・・・・・・」
「さおり、さおり、さおり・・・・・・」
「さき、さき、さき・・・・・」
そして歌詞は続きます。
(詞:)もしも僕がいつか君と
出会い話し合うなら
そんなときはどうか愛の
意味を知ってください
ここで「何だ、まだ出会ってないの?」という詮索は不要です。
「いつか出会い話し合う」ということは、言ってみれば「運命の人」というわけでしょう。
その人はもう身近にいるかもしれないし、本当にこれから出会うのかもしれない。
でも必ず自分にとっての、そして相手にとっての「運命の人」はいる。
「愛の意味を知る」というのは、「運命の人」と出会ったら、話すことすることすべてが、つまりそれからの二人の行動や思いがすべて「愛」だということなのでしょう。
この部分は「リフレイン」になっていて、次の歌詞の後に繰り返されます。
(詞):ドブネズミみたいにだれよりもやさしい
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく
もう出だしのようなスローテンポではなく、アップテンポで歌われていきます。
聞いている人には、「ドブネズミ」の意味が分かってしまったからでしょう。
そして、先ほどの歌詞のリフレインの後、こんな歌詞が続くのです。
(詞):愛じゃなくても恋じゃなくても
君を離しはしない
決して負けない強い力を
僕は一つだけ持つ
前半の「愛じゃなくても恋じゃなくても」には、「愛」とか「恋」とかそんな使い古された言葉はどうでもいいんだ、といった思いがあるのだと思います。
それでは、次の、「僕」が持つ(ことになる)、「決して負けない強い力」とは何でしょうか?
実はこれこそが「愛」ではないかと思うのです。
けれども、普通に「愛」とか「愛している」、「恋」「これが俺の恋だ」とか言っても、それらの言葉には、もう十分すぎるほど「手あか」がついています。
だからそんなありきたりの言葉は使いたくない。
でも君を思う気持ちを伝えたい。
それが「決して負けない強い力」であり、その力を「僕は一つだけ持つ」なのでしょう。
「決して負けない」は、文字通り、「何があっても負けない、どんなことが起ころうともへこたれない」ということでしょう。
その力は何のために?それは「お前を守るために」でしょう。あるいは、「二人のこれからを守るために」。
しかもその力は、いろいろあるのではない。「一つだけ」だと言ってます。
そうしたら、これはもう「愛」しかない。
でも(繰り返しになりますが)、ここで「俺はこんなにお前を愛しているんだ」「俺の愛は不滅だ」なんて言ってしまうと、これまでの使い古された文脈にかすめとられて、陳腐なものになってしまう。
「これが俺の最後の恋だ」とか、
「お前は俺が愛したただ一人の女だ」なんて言っちゃうと、下手したら演歌の世界です。
演歌が悪いと言っているのではなくて、どうしてもそこには固定された世界しかない。
それを避けて、なおかつ聞いている人あるいはこの歌を聞いている恋人に考えてほしかった。
そして気づいてほしかった。こんなにも愛していることに。
ここ好きなんですよ。
いつもここで「ぐっ」ときちゃいます。
そして最後に、再び「リンダ リンダ ・・・・・・」と名前を呼び続けるのです。
この曲には、論説文や詩などでも多用されている、おそらくは漢文の用法から来ている「対比」の構造があります。
それは曲の前半のスローテンポ、後半のアップテンポという「対比」です。
対句的な構成と言ってもいい。
これにより前半も後半もよりくっきりと印象付けられるのです。
再び曲の初めに戻れば、ここには、「今までの言葉遣い」とは違った意味合いで言葉を使っている仕組みがあります。
「ドブネズミ」のことです。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と歌うことで、聞いている人には一瞬「ドブネズミ」が見えなくなります。
「ええ?ドブネズミみたいに、う、美しくって、なに?」
これが「異化作用」だと思うのです。
使い古された言葉に新しい意味を与えること。
新しい文脈の中に言葉をおいてみること。
そういった意味でも、この歌詞は、この曲は成功していると思うのです。
どんな文章でも、相手に考えさせることのできる文章が優れている、僕はそう思っています。
「ブルーハーツ」の『リンダ リンダ』、名曲です。
もしまだお聞きになっていないのでしたら、人生の損失です(笑)。
すぐにお聞きになることをお勧めします。
気が乗らない作業のときは、リズム感たっぷりの音楽をかけるときもあります。
そんなわけで、今日のBGMは、大好きな「ブルーハーツ」。(古い?)
でも、
音楽に合わせてリズムを取っていたら、
トイレに行きたいのに我慢している人、
になってしまった。
むずかしい。