君に捧げるLove Song

君に捧げるLove Song

この世界で最も大切な 君へ

君の傷みの深さや、苦しみは理解できないかもしれない。

ただ、感じることはできるかもしれない。



君が目の前にいなくても、君のことを愛してる。

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鳩山由紀夫&幸夫妻にはまっています。


最近、『1Q84』を読了し、その世界にはまりこんでいる。


立ち読みで、2・3の1Q84批判を読んで気づいたことがある。


「圧倒的存在感を持つ作品に対しては、いかなる批評も無力だ。」


私が好きな書評は、トヨザキ氏&大森望氏の文学賞メッタ斬、石原千秋、

斉藤美奈子によるものだ。

どの書評も忌憚なく、歯切れがよいのが魅力。


しかし、1Q84の書評に関しては、どの書評も「ニブい」

書評が下手なわけではない。

1Q84があまりにも、絶大でそれを前にしてどんな書評や言葉も無力化しているのだ。


実に、実に小気味よい。


私は、書評が嫌いだ。書評が書きたい自分も嫌いだ。

人がなぜ、書評を書くかというと、

①読んだ本が素晴らしく黙っていられない。

②何らかの形で筆者に近づきたい。

③筆者(作者)があまりにもバカなので、とっちめてやりたい。

④自分の知性をついでにアピールしたい。


などであろう。


最近では、小説や作品があまりにもみじめなため、

書評を添えて無理に価値を上乗せしなければ作品価値が発揮されない場合が多い。


いいかい?


批評家や研究者を野放しに、自由にしてはならない。


第一、「名作」はだれが決めるのか?

「駄作」はだれが決めるのか?


それは個人だ。批評家が決めることではなく、読者自身が決めることだ。

書評や研究論文に踊らされてはならない。

作者と読者の間で親密な関係が、作品を介して成立すればそれでよいのではないか。


かくいう私も文学部国文学科というところにいる。

そこで行われている研究が不自然な気がしてならない。


どうだろう。

 長らく、MIXIで日記を綴ってきたが、心機一転してアメブロに変更した。

特に理由はない。


先日、話題になっている村上春樹著『1Q84』を読了した。

久々に腹の底にたまる小説を読んだ思いだ。

力のある小説はどんな書評や、批判も無力化する。

大概の小説は、書評や著名人の推薦が添えられて初めて力を発揮する。

+αの文句が添えられて初めて、効力を発揮する。

しかし、村上さんの世界や人間への認識は卓越している。

現世的な価値観を超えてしまっている。


『1Q84』未読の方も多いと思うので、内容については多言しない。

この小説では「組織と人間」「宗教と人間」「人間の無力さ」が描かれている。

しかし、ラストまで読んだ方ならおわかりかもしれないが、この小説の根本を貫くのは、「愛」である。


まさしく、現代を生きる我々が今後向かう方向である。

「All Need is Love」万物は、生存せよそして愛せといった方向へ向かって流れている。それのみしか、人類が生き延びる術はないであろう。