勤めていた場所
私が高校を卒業してから、約7年お世話になっていた会社は
東松島市の大曲の海沿いにあります。
こんなダメダメな私を、社長と奥さんは本当に可愛がってくださいました。
自衛隊の松島基地が津波で大きな被害を受けたと聞いた瞬間、真っ白になりました。
会社のある地域はもっともっと海沿いにあるのに。
とにかく、連絡がとれないので心配でした。
現場の人達は場所によっては大丈夫。
でも、会社にいる人達は?
近くにある、社長の自宅とご家族は?
地域の皆さんは?
月曜日から仕事に行った、よぅちゃんの現場がその地区だったと、帰ってきてから聞きました。
見ない方がいい。
頭が痛くなる。
つらい。
よぅちゃんが帰ってから言った言葉です。
この地区から逃げるには2本の橋しかないんです。
それが何を意味するかは良くわかると思います。
18日に会社の人と連絡がとれ、ちょうど会社を見に行く途中とのことだったので、のせてもらい行ってきました。
その人の車は会社の駐車場にあったのでもちろんありません。
会社で使っていたダンプで行きました。
その時の写真です。

会社の近くです
周りにはもちろん、もっと家がありました。
そして、この後、もっと会社の近くに行くと
そこには
社長、奥さん、部長(息子)、部長の奥さん
がいました。
奥さんは私を見つけると泣きながら寄ってきてくれました。
私も奥さんと部長の奥さんと泣きながら、みんなの無事を確かめました。
良かった。
お互い、何も無くなってしまったけど
生きていた。
頑張っていこう。
そんな会話をして短い時間でしたが、奇跡的に会うことが出来ました。
そして会社の写真です

奥のオレンジ色の建物がそうです。
1階は何かが貫通して穴が空いているとよぅちゃんが行っていました。
でも、この危機一髪な建物に社長と奥さんはずっと残っていたそうです。
いくら鉄骨でも、有り得ない‥‥‥と思いましたが、
生きててくれて良かったです。
ここでも、たくさんの人達が無くなっています。
車で、自転車で何回も通った道は無く、
出会った人達はどのくらい生きてくれているかわかりません。
でも、会社は時間がかかっても頑張って復活するみたいです!!
良かった。
私も頑張ります!!
東日本大震災②
声が誰かわかるのが先か
姿が見えたのが先かは
わからなかったけど、
駆け寄ってきた人は
お母さんでした。
驚き過ぎて、その時のことは良く覚えていません。
ヘリコプターじゃないと行けないって消防団の人達が言っていたし、
連絡も出来ない、情報も全くない中だったので、
しばらくは家族に合うのはもちろん、北上町には帰れない、と覚悟していたからです。
でも、涙ぐみながら目の前に現れたのは
お母さんでした。
驚きと嬉しさと安心と信じられない気持ち、とにかく言葉では表現出来ない一瞬でした。
まさか3日目で会えるなんて、考えてもいなかったし。
間もなく、お父さんも来ました。
アパートにいれば大丈夫だろうとわかっていても、私達の安否を全く知らなかった両親も私と同じような感じだったと思います。
それに、地震の時の話をしながら、お父さんの目には涙がありました。
『なんにもなくったよ』
『ウチも船も周りの家もなんにもないよ』
『北上町自体ほとんどなんにもない』
このことを聞いても特にショック等はありませんでした。
わかっていたし、何より家族やみんなが無事で元気でいてくれた。
ただ、そのことだけで充分だったから。
それでも、私の部落では二名ずつ、亡くなった方と行方不明の方がいました。
行方不明の方はお年寄りの夫婦で、私はあまりわかりませんが
亡くなった方はどちらも知っている方です。
他にも何名か亡くなった方と行方不明の方が、私の住んでいた学区でいました。
弟の同級生の女の子が1人亡くなりました。
親しくはなかったけど、私の同級生の女の子も1人亡くなったと後日知りました。
とても悲しいのに‥‥‥なぜか実感がわかないのも本当の気持ちでした。
それから、色々話をしたりして両親は帰っていきました。
長い時間では無かったけど、両親に会えて、たくさんの人達の無事を確認出来て安心しました。
ガソリンも無いし、またいつ会えるかわからなかったけど、やっと安心しました。
と思っていたら、また3日くらいして両親は来ました。。。
じぃちゃんの補聴器の電池を買いに来たそうです。
ガソリンもなんとかまだあるとのことでした。
それからは、
よぅちゃんパパの妹さんと息子さんが、津波で床上浸水の被害で、私達と同じ所に避難してきました。
18日には、約7年お世話になった会社のあった場所に行ってきました。
避難所の食事が1日2食になり、母乳の私にはつらい状況になったので仙台のお母さんの実家に、龍牙と行くことにしました。
21日に1度北上町へ。
22日に実家をみた後、仙台へ
そして今に至ります。
仙台へきて驚いたのは、ライフラインの復旧具合に差があったり、お店の状態などありますが、
既に普段に戻ってきていること。
よぅちゃんの話では、今の避難所は『1日2個のおにぎりプラス何か』
以前は地区の方々が交代で炊き出しをしてくれていましたが、それが終わり、
更に、なるべく早く出て欲しいといぅよぅなことも言われたとのこと。
言いたいことはたくさんあるけれど、
ありすぎるし、上手く言えないからやめときます。
停電や携帯が使えないのがしばらく続いていたので、その間の情報は細かくわかりませんが
今は、日本中で頑張って、応援してくれている人達がいる。
私は大切な人を失っていないから、頑張ろうとか前向きにとか、もぅ、言えます。
ブログも明るくかけます。
私は被災者と言えるほどの被災者ではないです。
でも、この大震災を間近で経験したこともたしかです。
どのくらい時間がかかって、どのくらいの人が同じ場所に戻るかはわかりませんが、
必ずいつかは復興できる。
その長い道のりも、しっかりこの目で見ていきたいと思います。
相変わらずのハチャメチャな文?を最後まで読んで下さった方、どうもありがとうございます。
こんな私ですが、良かったらこれからも
よろしくお願いします。
東日本大震災
今日で2週間。
早いのか遅いのかわかりません。
それでも、やっと「私は」落ち着いてきているので、この大震災のことをブログにかきたいと思います。
私が住んでいる所は『宮城県・石巻市』でも
特に大きな被害はありませんでした。
物が落ちたり壊れたり倒れたりといった当たり前のことと
ライフラインが止まってしまっているので、近くの小学校の体育館で避難生活をしていました。
ただ、私の実家は海が目の前にあります。
静岡にいる弟が、地震後に両親と連絡がとれ、『大丈夫』と言っていたと連絡をくれました。
ただ、その1回だけで、その後はつながらないとも言っていまさた。
その時は、ラジオの情報しかなかったので安心していました。
それでも時間がたつにつれ、物凄い被害状況だということがわかると、どんどん不安が大きくなっていきました。
ラジオで聞く地名の半分くらいは行ったことがある場所。
その場所が想像もつかない状態になっている。
何度か電話が出来た弟や友達とも夜中には連絡が出来なくなりました。
私が勝手に絶望的になったのは、翌日からの新聞と消防団の人達の情報を聞いた時。
新聞に載っていた写真には、よく行った南三陸町の志津川が津波で何も無くなっていく四枚の写真。
他にも知っている地名の写真、被災状況を見る度に、『信じられない』しか出てきませんでした。
こんな津波で、あそこに逃げて本当に大丈夫だったのか?
あの場所は充分な高さがあったっけ?
と、マイナスなことだけが浮かんできて、お父さんもお母さんもじぃちゃんも、知ってる人達みんなダメかもしれない
と思うようになりました。
月曜日(14日)、災害復旧としてよぅちゃんは仕事に行きました。
よぅちゃんのお父さんは、会社がほぼ機能出来ない状態で休みでしたが、やっぱりよぅちゃんがいないのはとっても心細かったです。
不安でいっぱいで、涙目になったりしながら
龍牙と遊んでいると
後ろの方から
『さや!!』
と呼ぶ声がしました。
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