東日本大震災② | 向日葵日記

東日本大震災②

 
 
 
声が誰かわかるのが先か


姿が見えたのが先かは

わからなかったけど、



駆け寄ってきた人は


お母さんでした。



驚き過ぎて、その時のことは良く覚えていません。

ヘリコプターじゃないと行けないって消防団の人達が言っていたし、

連絡も出来ない、情報も全くない中だったので、

しばらくは家族に合うのはもちろん、北上町には帰れない、と覚悟していたからです。




でも、涙ぐみながら目の前に現れたのは

お母さんでした。


驚きと嬉しさと安心と信じられない気持ち、とにかく言葉では表現出来ない一瞬でした。

まさか3日目で会えるなんて、考えてもいなかったし。



間もなく、お父さんも来ました。





アパートにいれば大丈夫だろうとわかっていても、私達の安否を全く知らなかった両親も私と同じような感じだったと思います。


それに、地震の時の話をしながら、お父さんの目には涙がありました。




『なんにもなくったよ』
『ウチも船も周りの家もなんにもないよ』

『北上町自体ほとんどなんにもない』

このことを聞いても特にショック等はありませんでした。

わかっていたし、何より家族やみんなが無事で元気でいてくれた。

ただ、そのことだけで充分だったから。


それでも、私の部落では二名ずつ、亡くなった方と行方不明の方がいました。


行方不明の方はお年寄りの夫婦で、私はあまりわかりませんが

亡くなった方はどちらも知っている方です。



他にも何名か亡くなった方と行方不明の方が、私の住んでいた学区でいました。
弟の同級生の女の子が1人亡くなりました。
親しくはなかったけど、私の同級生の女の子も1人亡くなったと後日知りました。



とても悲しいのに‥‥‥なぜか実感がわかないのも本当の気持ちでした。





それから、色々話をしたりして両親は帰っていきました。


長い時間では無かったけど、両親に会えて、たくさんの人達の無事を確認出来て安心しました。


ガソリンも無いし、またいつ会えるかわからなかったけど、やっと安心しました。


と思っていたら、また3日くらいして両親は来ました。。。



じぃちゃんの補聴器の電池を買いに来たそうです。

ガソリンもなんとかまだあるとのことでした。







それからは、


よぅちゃんパパの妹さんと息子さんが、津波で床上浸水の被害で、私達と同じ所に避難してきました。


18日には、約7年お世話になった会社のあった場所に行ってきました。


避難所の食事が1日2食になり、母乳の私にはつらい状況になったので仙台のお母さんの実家に、龍牙と行くことにしました。

21日に1度北上町へ。
22日に実家をみた後、仙台へ


そして今に至ります。





仙台へきて驚いたのは、ライフラインの復旧具合に差があったり、お店の状態などありますが、

既に普段に戻ってきていること。



よぅちゃんの話では、今の避難所は『1日2個のおにぎりプラス何か』

以前は地区の方々が交代で炊き出しをしてくれていましたが、それが終わり、
更に、なるべく早く出て欲しいといぅよぅなことも言われたとのこと。





言いたいことはたくさんあるけれど、

ありすぎるし、上手く言えないからやめときます。





停電や携帯が使えないのがしばらく続いていたので、その間の情報は細かくわかりませんが

今は、日本中で頑張って、応援してくれている人達がいる。





私は大切な人を失っていないから、頑張ろうとか前向きにとか、もぅ、言えます。


ブログも明るくかけます。



私は被災者と言えるほどの被災者ではないです。




でも、この大震災を間近で経験したこともたしかです。



どのくらい時間がかかって、どのくらいの人が同じ場所に戻るかはわかりませんが、

必ずいつかは復興できる。


その長い道のりも、しっかりこの目で見ていきたいと思います。






相変わらずのハチャメチャな文?を最後まで読んで下さった方、どうもありがとうございます。



こんな私ですが、良かったらこれからも

よろしくお願いします。