私から見た綿谷りさという作家は、頭と体が繋がっていない未知の生き物だ。頭だけ見ると私と同じ人間で、安心して近寄っていくのに、ふと体を見れば大蛇。そんな理解しがたさがある。物語に共感しながら読み進めていくと、主人公がある瞬間から私とは全く相容れない人物として浮かび上がってくる。その瞬間、「この人は私の気持ちを分かってくれない!」という反発心を抱くと同時に、深く傷ついてしまう。だから私は綿谷りさという作家のことを手放しに好きだとは言えなかった。そんな未知の生物・綿谷りさの輪郭を初めて認識できたのが、この『意識のリボン』という短編集だった。

『意識のリボン』は小説という形式をとってはいるものの、「これは綿谷りさ本人のことではないか」と思われる箇所がいくつか登場する。そのうちのいくつかは物語というよりも、語り手が自分の気持ちを整理するためだけに書いたかのような文章だ(タイトル通り「意識のリボン」のような語り口である)。これまで読んだ綿谷りさの "小説" からは見えてこなかった、綿谷りさ自身の輪郭が見え隠れする、ある意味生々しい短編集だった。

 

 綿谷りさに「裏切られた」と感じる理由の一つに、今まで一人きりで生きてきた主人公が、急に愛する(愛せる)人に出会い、他人と共に生きてゆく決心をするところにある。前半のぼっち満喫パートがリアルなぶん、後半の気持ちの変化のスピード感に置いて行かれたような気分になってしまうのだ。結局この人も恋愛至上主義なんだ、という冷めた気持ちを抱いてしまうのもそのせいである。

 けれどもそこで綿谷りさを「恋愛脳の作家」と軽蔑することはできなかった。ただ愛だ恋だと祭り上げるだけの作家とは違う、孤独への深い共感と恐れが文章からにじみ出ているからだ。でなければ「裏切られた」だの「分かってくれない」だのという、拗ねと甘えが混じったような感情を読者に抱かせることなどできはしない。これほど読者を自分の方へ引きつけられるのも、悔しいが綿谷りさの才能なのだと思う。

 

 話を戻すが、私は『意識のリボン』を読んで、綿谷りさの頭と体の繋ぎ目が見えた気がした。本書に収録されている「こたつのUFO」や「履歴のない女」では、変化を恐れながらも、常に新しい自分に変化し続けたい前向きな心持ちが描かれる。変化を恐れる背景には、あまりにもスムーズに変わってしまう自分への戸惑いと罪悪感がある。それから、これまでの人生で抱いてきた感情や習慣をあっさりと忘れてしまうことへの口惜しさ。私自身、就職を機に実家を出た際には同じような戸惑いを感じたために、主人公たちの気持ちがダイレクトに響いた。そうした戸惑いを、綿谷りさはこう振り払う。

 

「臆病になっちゃいけないね。大切なものを守りながらも、いろんな景色が見たい」

 

 綿谷りさの頭と体を繋いでいたもの、それはこの勇み立つような前向きさだったのだ。そしてこれは私自身が持つべき心持ちでもあった。変わることではなく、変われないことを恐れ、そして拗ねていた自分。綿谷りさという作家を知る中で、自分では気付かなかった弱さに気付くことができた。私が自分の生き方を好きだと思えた時こそ、綿谷りさを素直に好きだと言えるのかもしれない。

 

タイトルでBEST10と掲げたものの、順位付けが難しかったので読了順に紹介していくよ!

 

 

1. 夏目漱石『文鳥』

 

 これはシンプルに美しかった。語り手はもらってきた文鳥を最後に死なせてしまうんだけど、その様に昔の女の面影を重ねて終わる締め方が見事だった。文鳥の世話をする前半場面の微笑ましさから一転して、物語が空恐ろしさと残酷性を帯びる瞬間がたまらない。これぞ純文学って感じ。

 


2. 三島由紀夫『仮面の告白』

 

 これも文学的にすごい!!っていう意味合いでBest10入り。性的に不能な主人公の苦悩を描いた作品。

 語りたいことは多々あるんだけど、一つだけ選ぶとするなら、主人公の思い人である園子が谷崎潤一郎の『蓼食う虫』を読んでいる場面。主人公にとって純愛の象徴である園子に、よりにもよって完全なる性愛の世界を描いた『蓼食う虫』を読ませる周到さにぞくぞくした。

 


3. コレット『シェリ』

 

 あらすじ的には中年女性と若い男の恋の話なんだけど。私はむしろここで描かれている女同士の友情の方に惹かれた。主人公とその友人は決して互いを気遣い合うような関係じゃない。会えば互いの身なりを胸の内で評価し合うし、失恋で弱ってるところなんて見せたくない。「女同士ってドロドロしてるよね」のドロドロを体現したような友達関係。なんだけど、互いに張り合うことで刺激がもらえる、だから彼女はやっぱり友達だ、と主人公は言い切るの! ここがすごく良くて!! 私は常識を打破るような作品が好きなんだけど、『シェリ』は友情の常識を覆してくれた作品だった。

 

 

4. 安部公房『砂の女』

 

 ストーリーとしても面白いし、文学としても面白かった。主人公が砂でできたアリ地獄みたいな穴の中に閉じ込められて、脱出しようともがく話。

 以下ネタバレになるけど、──主人公は最後には砂からの脱出を諦めてしまうのね。諦めたっていうよりも、別にここの生活も悪くないかって納得しちゃう。冒頭で砂の特性について(砂にはどんな生き物も適応できないとか何とか)書かれているんだけど、この話を読むと、人間の特性はどんな環境にも適応してしまうことなんだと思わされる。それを世間では妥協と呼ぶ場合もあるけれど、私は前向きに「適応」だと言いたい。少なくとも『砂の女』からはそういった印象を受けた。

 


5. 古井由吉『杳子』

 

 本当の文学とはこういうものなんだ、と目を開かされる読書体験だった。とにかく描写が密で、あらゆる感覚、感情を余すところなく文章で表現していて。本を読む時、私はつい内容(どんなテーマを扱っているとか、話の筋がどうだとか)にばかり目を向けがちだった。でも『杳子』を読むと、文学が文章の芸術だってことを思い出して、言いようのない高揚が生まれて。今さらすぎるけど、文学でやれることの幅の広さに感動した。そのきっかけをくれた作品。

 


6. 遠藤周作『沈黙』

 

 単純に面白い!! 一気読みでした。日本におけるキリスト教がどうだとか、信仰がどうだとか、そういうのは正直あんまり興味がなくて。でもこの作品はストーリーを読ませる技術が高くて、ページをめくる手が止まらないランキングなら三番の指には入ると思う。

 


7. 島崎藤村『春』

 

 入れようか迷ったんだけどね。藤村は今年好きになった作家でもあるし、好きになったきっかけがこの『春』だったから。

 青年時代の心の動揺と陰を描きつつ、ただ憂鬱に酔うのではなくて、生きようという強い意志が根っこにある作品。似たような作品でも、佐藤春夫の『田園の憂鬱』とは土壌が違うよね。私は田園の方に共感するタイプだから、藤村のことは興味深い観察対象みたいな感じで読んでる。来年は『夜明け前』(全4巻もある…)を読むのが目標です。

 


8. 小野不由美『風の万里 黎明の空』

 

 今年一番ハマったシリーズものといえば、小野不由美の「十二国記」シリーズ! その中でも一番面白かった作品が上記。

 異なる境遇の女の子3人が、それぞれの葛藤を抱えて闘うところが最高に好き! 気の強い女の子が大好きなので、読んでいてとっても気持ちが良かった。

 


9. 山内マリコ『ここは退屈迎えにきて』

 

 以前記事にした通り。どこに行っても居場所を見つけられない孤独感を、上京者と結びつけて描く物語に共感したから。

 


10. 綿谷りさ『私をくいとめて』

 

 今年ハマった綿谷りさ作品の中でも一番心に刺さった作品を選んだ。

 綿谷りさは描写によって主人公の特徴を浮き彫りにするのが上手い作家で、『蹴りたい背中』では蜷川という男子の名前を「にな川」とひらがなで書くことで、主人公がまだ幼い女子高生であることを強調していた。『私をくいとめて』は脳内のイマジナリーフレンドと会話をしてしまうほど孤独な日常に慣れてしまったアラサー独身女の生活を描いた作品。この作品でも主人公の目線で描写されるものを日常の半径3メートルくらいのものに絞り、湯がわいたとか道路の水たまりがどうとか、どうでもいいことばかりを選んで描くことで、変化の少ない主人公の日常を際立たせている。

 

 

 

 以上! 2020年は量的には例年の3分の2程度しか読めなかったけれど、質的にはまあまあいい本に出会えたと思う。

 来年もいい本に出会えますように!!

 

 

 

 

先日、北村薫『六の宮の姫君』を読みました。

芥川が自身の作品『六の宮の姫君』についてこぼした(架空の)言葉、「あれは玉突きだからね。いや、キャッチボールかな」の真意を解き明かす話で、作中では(ネタバレしますが)菊池寛の『首縊り上人』を受けて書かれた作品なのではないか、という解釈がなされています。

 

なるほど時系列を詳細に調べればこんな見方もできるのかと、

「本」という物の先にはやはり人がいるのだという当たり前の事実を改めて実感し、文学の味わいが増したように感じました。

 

とはいえ菊池寛の『首縊り上人』は未読。

さっそく近所の図書館で探してみたのですが、なにぶん田舎ゆえに文学全集の類はほとんど置いてなく……。残念ながら読むことはできませんでした。

 

私は普段本は新品を買って読む派で、図書館を訪れることはほとんどありません。

実のところ近所の図書館に足を踏み入れたのもこの日が初めてで、『六の宮の姫君』がなければ今後も足を運ぶ機会はなかったでしょう。

そう考えるとこれも縁ですよね。

 

で、せっかく普段来ない図書館に来たのだからと、もう一人の気になっていた作家の本を探すことにしました。

正宗白鳥。

白鳥は芥川の『往生絵巻』という短編に感想を寄せたことがあり、それについて『六の宮の姫君』で触れられていたのです。

 

全集はやはり置いていなかったのですが、見つけました見つけました。

ポプラ社から出ている『百年小説』という選集。

これに正宗白鳥の『死者生者』が載っていたのです。

 

読んでみてびっくり。

芥川が大正の名作として『死者生者』を挙げた、という記述があったのです。

うわー、なんという偶然。なんという縁。

 

『死者生者』は病により死を目前に控えた八百屋の店主の話で、安らかに死なんがために仏にすがる場面があります。

対して芥川の『往生絵巻』ですが、仏道を志した五位の入道が寝食を忘れて熱心に念仏を唱え続け、ついに骸となった彼の口に白蓮華が咲いた、というもの。

白鳥はこの結末を取り上げて「白蓮華は芸術上の装飾に過ぎない、実際にはそういう人は醜い骸となって朽ち果てるだけだ」というような感想を述べているのです。さすがは自然主義文学の人、といった感想。

 

さて、正宗白鳥『死者生者』が発表されたのは1916年、芥川龍之介『往生絵巻』は1921年。

上記の芥川の「大正の名作」発言がいつ頃のものかは調べてみないとわかりませんが、もし『往生絵巻』以前のものなら、ここでもまた「キャッチボール」が行われているのではないか?

そんな深読みもしてまいます。

 

北村薫『六の宮の姫君』から始まり、偶然見つけた『死者生者』。

そこから再び芥川に戻ってくるという縁に不思議な感動を覚えました。

本ってやっぱり面白い!!

 

 


吉田修一『女たちは二度遊ぶ』

あらすじ: 
さまざまな女たちとの邂逅を描いた短編集。
唐突に出会い、ともに過ごした時間さえ曖昧な女たち。それは時として、恋人として明確な始まりと終わりを迎えた女よりも色濃く記憶に残る。
はじめに、私は「恋愛小説」というジャンルが苦手です。
苦手なんですが、時おり妙にハマる恋愛小説を書く作家がいます。
それが吉田修一です。
『7月24日通り』を読んで、あ、この人の恋愛小説は読める、好きかも、と予感してから、ちょっとだけ目をつけていた作家。
今回『女たちは二度あそぶ』を読んで、予感が確信に変わりました。


この本はあらすじにもある通り、様々な、実に様々な女性との一幕を描いた短編集です。
どの話も10〜20ページほどでまとめられており、作中の女たちとの交流も、そのわずかなページ数で事足りるほど些細なものに過ぎません。

居酒屋で酔いつぶれていたところを持ち帰った女との数週間だったり。
入社して数ヶ月で辞めた会社の先輩だったり。

期間の長短は問わず、どの話でも語り手と女は決して深い繋がりを持たず、また相手のことを深く知ろうともせずに過ごします。
男と女の交流を描いた小説でありながら、どこか孤独感がにじみ出ているのは、彼らのそうした対人姿勢のせいでしょう。


なかでも私がいちばん胸に刺さったのは、「ゴシップ雑誌を読む女」という短編です。

この話の「女」は主人公が中途入社した会社の先輩で、冗談の通じない、周囲から疎まれる委員長タイプ。
彼女はイギリスにペンフレンドを持っていて、ゴシップ雑誌に載っている外国人俳優を眺めては、手紙の先の彼と重ねています。

ある時女が主人公に対し、「あなたは他にやりたいことがあるんでしょう」と尋ねます。尋ねるというより、断定に近い。
なぜこんなことを聞くのでしょう。別にやりたいことなんて一つもない、ただのらりくらりと生きていければいいという主人公は返事に窮します。
しかしこの問いは実は逆説的なものです。
仕事に身が入らない主人公を「他にやりたいことがあるからだ」と決めつけたのは、裏を返せば、女には何もやりたいことがないから、仕事を熱心にするくらいしかやることがないということになります。

女は自分が物語を持たないことに劣等感と焦りを抱いているんですよね。
毎日ただ会社に行って働いて帰るだけ。何か夢があるわけでもない。やりたいこともない。きっと趣味も生きがいもない。
だから何年も会っていないペンフレンドを「遠距離恋愛中の外国人の彼氏」という設定にして、「外国人の彼氏がいる私」という物語を無理やり演じている。そうしなければ生きている意味がなくなってしまうから。

この切実さ。
この切実さですよ。
どうして物語が必要なのでしょう。
どうして「やりたいこと」が重要なのでしょう。

小中学校の授業でも、そして就活なんかでも、「将来の夢は?」「やりたいことは?」よく聞かれますよね。
「やりたいこと」がなくても、「こんな風に過ごしたい」「こんな自分でいられたらいい」という理想は誰にだってあるはずなんです。
でも社会は「やりたいこと」を強要してくるし、やりたいことが見つからないのは、自分自身ときちんと向き合っていないからだということになる。
だってこの社会を動かしているのは確実に「やりたいこと」を持った人たちで、私たちはそんな人たちの下で働かせてもらって、そんな人たちが作ったシステムの中で生きているわけだから。仕方ないですよね。

でも私は「やりたいこと」を持たないことを間違いだとは思わないし、やりたいことがなくたって幸せに生きている人を甘えだなんて思いません。
明確な夢があり、それに向けて努力する人。「こんな風に生きたい」という生活の理想があって、その通りに生きられるよう努力する人。どちらも立派じゃないですか。
だから、後者の人がそれを実現する過程で将来の夢を聞かれたら、適当に媚びておけばいいんです。

この話の女のように、「やりたいこと」にとらわれて不幸になっている人、多いと思うんですよね。
主人公が最後に女をかばうような言動をとるのも、主人公自身が自分の生き方に納得していないから、女の狂気じみた切実さに共感してしまったからではないかと思います。

私は読みながら共感もしましたが、共感して虚しくなるというよりも、むしろ自分の今の価値観、生き方の軸に自信を持てたような気がします。
それは著者の文章が説教がましくもなく、かといって変に同情的でもない、ほどよい距離感で書かれたものだからでしょう。
これは『7月24日通り』(これもめっちゃオススメ)を読んだ際にも感じたこと。私がこの作家を好きなのは、そうした距離感の問題かもしれません。


 

本日2月21日は夏目漱石の日らしいです。

1911年の今日、漱石が文部省からの文学博士号授与を辞退したのだそうで。

(初めて知ったキョロキョロ

 

というわけで、今日は夏目漱石の話をしようかなーと思います。

 

 

私が初めて読んだ漱石作品はおそらく『こころ』です。

高校二年生の現代文の授業で一部を読んで、面白そうだったので文庫本を買って読んだのが最初じゃないかなぁ。

 

それまでは

近代文学=教科書に載ってるやつ=つまんない

という認識が私の中にありまして。

 

芥川の『羅生門』とか。森鴎外の『高瀬舟』とか。

「結末は自分で考えてね」系の作品があまり好きじゃなくて。

何だよ偉そうに! と思ってたんですよね笑

 

「下人の行方は誰も知らない」じゃねーよ! 教えろよ! そこが肝だろ! みたいな笑

 

授業で強制的に考察させられるから、なおさら反発心を煽られたのかもしれません。

(今では上の二つは大好きな作品です)

 

でも『こころ』は小説としての筋が格段に面白かったんです。

恋の三角関係、親友の自殺など、それまで教科書で読んできた作品にはなかった要素に驚いて。

「こんな話も教科書に載るんだ!」っていう新鮮さもあったんだと思います。

 

それで「ちゃんと全部読んでみたい!」と思ったんですよね。

思えば私が初めて心で触れた近代文学作品だったかもしれません。

 

くわえて、漱石の文体は近代文学の中では読みやすい方でした。

 

近代文学に挫折する要因って、上に書いたような「ブンガクっぽいオチ」が気にくわないのを別にすると、やっぱり文体が小難しくて頭に入ってこない! っていうのが大きいと思うんです。

 

同じく教科書に載っている作品だと、私は中島敦の『山月記』がかなーり好きだったんですけど、だからと言ってじゃあ中島敦の本を買って読んでみようとは思わなかった。

だって文体が難しかったから笑

面白いけど、自分ひとりで理解できる自信はないなぁって。

 

その点『こころ』は読みやすい!

ブンガクの解釈に慣れていなくても、単純に物語として楽しめる!

 

近代文学の入口として、漱石ほど適している作家はいないんじゃないでしょうか。

 

 

夏目漱石は知ってるけど読んだことないなーって方、近代文学に苦手意識のある方、ぜひ『こころ』を手に取ってみてください。

 

 

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