サクソフォンとの出会い | 津軽のサックス吹きのブログ

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小学校に入学してすぐに小児結核(肺)に罹患し、一学期間学校を欠席して武沼小児科医院に通った。

夏休みが終わり二学期に入り、やっと登校が許された。

しかし給食の食べ方も知らず、隣をのぞき見ながら食べた記憶がある。

5年生になるまで体育的なことは許可されず、体育の授業は常に見学であった。

たまに隠れて友だちとちょっとでも激しい遊びをするとすぐ体調を崩し親にばれてしまうのだった。

それでも音楽が好きだったので器楽クラブに入り、アコーディオンをやった。

指揮する先生の右隣、大きなアコーディオンを構えているのが私である。

 

中学に入学の際に親からブラバンは駄目だと釘を刺され、姉の高校同級生が顧問をしている卓球部に入った。

顧問には事情を話して、ゆるい活動をさせてもらうことにした。

 

ところが卓球部が活動する講堂(体育館ではない)の裏がブラスバンド部の練習している音楽室であった。

私の心は毎日聞こえてくる楽器の音の虜となってしまった。

卓球部への気持ちは一週間ともたずにブラスバンド部に傾いてしまった。

 

そして顧問のF先生のところに行って事情を話した上で、肺に負担のかからない楽器を担当させてくださいとお願いした。

サクソフォンは「汽車の窓から歌口を出しただけでも音が出る」と言われてそれに決めた。

どんな楽器かは全く知らなかった。

 

親に告げたら呆れられ、「死んでも知らないから…」と叱られたものの渋々入部を許してくれた。

 

小学校時代に鼓笛隊でドラムメージャーをしていたこともあり、1年生の時からそれをさせられた。

この時の姿を父と母が見守ってくれていた。

下の写真、右の方に二人並んで立っている。

 

昭和39年は東京オリンピックの年であった。

下の写真はどんな状況で撮ったものか記憶がないのだがブラスバンド部の先輩と一緒に映っている。なぜかしら1年生は私だけである。

 

東京オリンピックの開会式だったか閉会式だったか忘れたが、弘前高校吹奏楽部の演奏会があり昼の部と夜の部、両方を弘前市民会館に聴きに行った。

先に何度もブラスバンド部という表現をしていたが、弘前一中の中ではブラバン、ブラバンと言っていたように思ってのことである。

 

それにしてもまさに「病膏肓に入る」の1年間であったと思う。

このようにして出会ったサクソフォンと生涯付き合うことになるとは知る由もない中学1年生であった。