小説には何人もの人物が登場する。

 

特に主役やヒロインをはじめ、重要な登場人物に個性があることが非常に大事になってくる。

 

小説の登場人物は10人、あるいは20人。多いと30人以上になることもあるだろう。

 

その一人ひとりを全く白紙の状態から、1から作り上げるとしたら、それはもう天才的な手腕といえると思う。

 

作り上げても、気づいてみたら登場人物がみんな同じ喋り方をしていたというのは、あまり良くない。

 

身近な人を思い浮かべれば、みんな違う喋り方をしている。乱暴な口を叩く女性もいれば、丁寧な敬語の男性もいる。

 

この辺で結論を言うと、私の場合は、登場人物にはモデルがいる。

 

ほかの作家に聞いてみると「私は登場人物にモデルはいない」と威張って胸を張っていた人もいた。

 

つまり、作家はそれぞれ書き方も考え方もポリシーも生き方も好きな文体も全部違う。みんな違ってみん・・・まあいい。

 

 

私の場合、モデルがいたほうが書きやすい。

 

大事なことは、いよいよ小説を書く段階の時に、作者自身がその登場人物の外見と性格を把握していることだと思う。

 

そうすると書きやすい。モデルがいるので、髪型も身長も体重も喋り方も声もそのまま描ける。

 

小説は声を聴かせることはできないが、高い声、低い声、渋い声、ハスキー、太い声、細い声と描写することはできる。

 

モデルがいると自然に登場人物が全員違う喋り方をしているようになる。

 

ただ、モデルが動物の場合は、喋り方や身長、体重は想像で描くことになるが、モデルが人間ならば書きやすい。

 

 

大河ドラマの登場人物は織田信長や徳川家康など本名で出るが、朝ドラの場合は、例えば「エール」なら、古山裕一や関内音など、名前を変えている。

 

しかし、最初から誰がモデルかはわかっている。木枯正人も、プリンス・佐藤久志も、村野鉄男も、双浦環も、皆実在した人物をモデルにしている。

 

私が書く小説は朝ドラのモデルとは意味が違う。当然のごとく、誰をモデルにしたかは企業秘密だ。

 

プロレスラーなど有名人をモデルにした場合は、わかる人はすぐにわかる場合もあるし、伏せる場合もある。

 

名前を完全に変える時もあれば、名前に思い入れがあるならば、そのままの名前で描くこともある。もちろん苗字は変える。フルネーム全部同じというのは問題がある。

 

よくある名前なら使いやすいが、あまりにも珍しい名前だと使いにくい。

 

ともあれ、作者が登場人物に対して思い入れがあるというのは非常に大切なことだと思っている。

 

作者が熱く燃えていないと読者にも伝わらない。小説は冷めて書きたくない。シビレエイの原理だ。

 

自分が痺れているから人を痺れさせることができる。自分が感動していないのに人が感動するわけがない。

 

 

映画で、通行人などワンシーンしか出ないのに大物俳優を起用して「特別出演」という遊び心があるが、小説でもそれはある。

 

大御所の漫画家がよくやるのは、さりげなく作者本人が登場していることだ。

 

 

私は登場人物の名前は真剣に考える。名前はやはり重要だ。そして、名前が決まったら検索する。

 

自分が知らないだけで、有名人と同姓同名だと困るからだ。良い役ならまだしも、愚烈な凶悪犯役と国会議員が同姓同名だったら、意図的だと誤解されてしまう危険性もある。

 

大嫌いな人間をわざと登場させて、思い切り叩くようなことは小説の邪道だと思っているので、やらない。

 

主役もヒロインも悪役もエキストラも皆登場人物はキャストであり生きた俳優なので、大事に扱う。

 

私はワンマン監督ではない。キャストと話し合いながら撮影をしていくノリで執筆する。