ごきげんよう!さわこです

2021年4月29日の記録

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悔い改めていながら平安が無い人がいます。

私自身もそうでありました。

私の悔い改めは、本物でないかもしれない。

偽物かもしれない。

悔い改めもどきなのかもしれない。

つまり、私は偽クリスチャンなのではないか?

 

そういう思いに囚われて、祈りに行き詰まり、苦しんだ時代がありました。

 

あなたは、神を見ずに自分を見ているからだ。

あなたは感謝と喜びが足りないからだ。

あなたはゆだねていないからだ。

 

こうした三点セットの譴責から、私の心は平安からますます遠のきました。

 

信仰的正論は、心を追い詰めます。

「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを眺める待ちなさい」(使徒1の4)

イエス様のこの御言葉に光が差しました。

エルサレムとは、偽クリスチャンであろうとも、そんな私を受け入れてくれた教会、そして、私の今居る場所。イエス様のおられる所。

わたしから聞いた父の約束されたもの、とは、御言葉、聖霊。

 

そして、私は、聖書通読と日ごとの朝のデボーションを始めました。

21年前、バプテスマから10年後。

(3年前の記録だから、今から24年前になるわ)

 

大切なことは、このように取り組むことだったと思います。

 

「リバイバルはこうして起きる」179ページを要約します。

 

「彼は実際に悔い改めていました。その心は深い苦悶に満ちていました。

彼に欠けていたのは悔い改めではありません。彼の平安を妨げていたのは何でしょうか。

彼はパウロのように、自分の姿を見て示されて、惨めな思いになり、義と平和を求めながらも生涯惨めでした。

この惨めな状態を自覚していることは、神が彼を見捨てておられなかったことの確かなしるしです。

聖霊を受ける人だけが自分の罪を見ることができます。

心が汚れているのは罪のわざです。しかし、心が汚れているのを知るのは神のわざです。

彼に必要なのは、イエスを愛しイエスに頼ることでした。」以上

 

彼はイエスを愛していなかったのでしょうか?

イエスを頼っていなかったのでしょうか?

イエスにゆだねてなかったのでしょうか?

 

「悔い改めていても、イエスを愛しイエスに頼っていない」とアドバイスされたなら、論理は破綻しています。

悔い改めは、単なる反省ではありません。神のもとに立ち帰る。イエスを我が救いと信じることです。

 

 

「リバイバルはこうして起きる」175ページにヒントを見つけました。

要約します。

バプテスマを受けた人は、聖霊の力と内住のキリストによって、日ごとに古い性質に死に、新しい性質を身につけます。しかし、それには時間がかかるのです。十字架刑は瞬間的なものではなく、時間がかかります。信じる者の性質は、容易く瞬間的に死ぬのではありません。聖霊によって、地の性質、肉の性質、つまり古い性質を殺して頂かなくては、聖霊に満たされることはできません。

以上

 

やっと腑に落ちました。

彼の苦悶、私の苦悶の理由です。

悔い改めが足りないのではなく、

イエスを信じる信仰の欠如でもなく、

悔い改めて神に立ち帰っても、

自分を十字架に掛けて死んでしまうまでには、

時間がかかると言うことです。

その時間は、快適なものではなく苦闘です。

 

しかし、一人で苦しむのではない。

イエス様がくびきをともに負うてくださる。

インマニエルなるイエスが共におられ、共に苦しんでくださる。

 

それを、聖書から確認し、感謝と慰めをイエスから頂く。

日々のその交わりを聖霊が助けてくれる、導いてくれる。

そして、心が癒され、いつしか平安になっていることに気がつく。

一足飛びに古い自分に死にはしない。

 

かつて、喜びと感謝とゆだねることが出来ていないから、

平安がないのですよとアドバイスされて、悲しいだけでした。

 

しかし、その哀しみをイエスに持って行くことを知ったのは、

御言葉による日々のデボーションの時間を継続することによりました。

つまり、イエス様と共に過ごすことでした。

 

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マラナ・タ

信仰用語で取り繕って、

気分的に平安もどきになるようなことなどしなくていいのです。

そうして自分を騙してしまうことはやめよう。

イエス様と共に過ごせばよいのだ。

そのために聖書を持っている。