ごきげんよう!さわこです。

 

思い出シリーズ

 

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1、着物生活を始めたわけ

 

2006年の10月のある朝、

「あなたは愛が足りないね。聖書の十戒の第5条を守っていないよ」

神さまが私の心に語り掛けたのでした。

 

私と両親の関係は、良好でした。

「あなたは、反抗期がなかったわね」と母はよく言っていました。

 

もちろん、親への反発心も反抗心も心でちらちら燃えることもありました。

ただ、「この程度のことで、親に反抗したり怒ったり、泣きわめいたりするのはみっともない」

と私の自尊心と私の美意識が反抗することを許しませんでした。

腹が立っても、日記に書いて燃やしてそれでおしまい。

そんな私のどこが、「親を敬っていない」のでしょうか?

 

思いつくことは、一つ。

箪笥の肥やしの着物です。

着物を見るたびに、「時代錯誤もはなはだしい。むだ使いだ」と親に対しての軽蔑心が湧いていたのでした。

それだ!親への私の軽蔑心を神さまは御存じでした。

 

その日のうちに私は着付け教室に飛び込みました。

半年間、着付け教室に通いました。

教わったことを忘れないために、毎日、着物を着て帯を結びました。

50代の私には、嫁入り支度の着物は派手になっていました。

母は、20代30代の着物を作ってくれていたからです。

私が着物を着ようとしていると分かると、母や叔母の着物が回ってきました。

新しく購入しなくても、年齢相応の着物が集まってきました。

中学時代の親友は、亡くなったお姑さんの着物を届けてくれました。

どの着物も仕立て直ししなくても、そのままに着られるサイズでした。

 

 

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2、茶道を学ぶようになったこと

ちょうど着付け教室に通い始めたころに、大阪在住の古い知人から手紙が届きました。
同じ市内にお住まいの一人暮らしの母上が高齢になって、心配だから月の半分は帰省することになったこと。
しかし、母上はすこぶる元気だから、暇を持て余していること。
大伯母さまが、お茶室を持っていて、お弟子さん方がお茶の教室を開いていること。
お道具は一切そろっているから、「あなたもお弟子さんをとりなさい」と勧められていること。
そういう次第で「お弟子さん募集中」いかがですか?という内容でした。

教会の子供たちに、教会のご高齢のご婦人が二人「新春こども茶会」を数年前から開いてくれていました。
しかし、二人とも引っ越してしまわれて、「こども茶会」の指導者がいなくなっていたのです。
子ども時代と娘時代に遊び半分で教わった茶道を子どもたちに指導する技術も知識も私にはありませんでした。

「渡りに舟!」 とはこの事です!
着物を着るようになった私。お茶のお稽古に誘われた私。

「これって、神様がしなさいって、仰っているのだわ!」

着物教室に通うようになってから、私は毎日着物を着るようにしていました。
着付け教室に通った半年間、継続しました。
教室を終えてからも、春夏秋冬、毎日、着物生活を続けました。
そうしないと、物覚えが悪く無器用な私は忘れてしまうからです。

普段の生活だけでなくお茶のお稽古に着物を着るとなると気合も入ります。
そして洋服よりも着物の方がお稽古しやすいのです。

 

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3、バス停で声を掛けられる

茶の湯のお稽古の日、バス停でご町内の年配のご婦人が声をかけてくださいました。


「着物はいいわねえ。世知辛い時代だから着物姿の人を見るとほっとするわ。
人は、ころころ変わるものだから、気分の持ち方を他人まかせにしていてはだめよ。
自分で、自分のうちにある心のページを開いていかなくてはね」


そのご婦人は、いつもはっとするような言い回しをなさいます。
きっと、心のひだの深い方なんだと思いました。
人間関係で辛い思いをしてきた方なんだろうなとも思いました。


「そうですよねえ。この世は、諸行無常ですものね」と思わず答えてしまった。

諸行とは、一切の造られたものすべて。
無常とは、この世のすべては、常に流動変化するもの。

その女性は、人の変わり身の素早さに、心に傷を負ったことがあったのかもしれない。
その痛みの中で、人の世の「無常」(無情ではなく)を切に感じたのだろう。

「情のない人だった」と恨むのではなく、世も、人も、常に流動変化するものであることを身に沁みて感じ取ったのだろう。
哀しいけれども、それが、人というものなのだと。
そして、自分の心の平安を、人によって得ようとすることの頼りなさ、空しさを痛感してこられたのではないだろうか。


自分のことは、自分で守る。自分の心は自分で守る。
そして前進することを自分に課して、「自分の内にあるページをめくる」という作業に明日を見いだそうとしておられるのだ。

良い本を読むこと、美しい自然の移ろいに目を向けること。
少女パレアナのように「良いこと探し」をすること。
そうして、
自分の内にあるページを開いていて切り替える。


「着物を着ることも、その一つに数えることができるわね」
と、そのご婦人は言いたかったのかもしれない。

5分ほど遅れてバスがやって来た。
その5分で「自分の内にあるページを自分でめくる」という哀しくも美しい言葉をもらった。

「お先に」と、ご婦人は私より先に降りられた。

「主イエス・キリストの恵みがその方と共にありますように」と心の中で祈って会釈を返した。

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4、直心

 

その日のお稽古に使ったお茶笏の銘は「直心」じきしんでした。
素直な心、まっすぐな心という意味でした。

経験を積むということ、知識が増していくということ。
しかし、それによって羞恥心が減ってはならない。高慢になってはならない。

年を重ねることによって、なお、直心を保つことは大切なことだ。

お稽古を終えて帰り道、あのご婦人のことを思いました。
「渡る世間に鬼はない」と言うことわざがあるけれども、「渡る世間は鬼ばかり」の体験を重ねていくと、心がささくれ立ってしまうこともあるかもしれない。
しかし、そんな中で深い人生の学びをして品性が磨かれる人もいるのだ。


ローマの信徒への手紙 8章28節
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるようい共に、働くということを、わたしたちは知っています。」


あの方が、経験されてきたことすべてがあの方の心を磨くものとして、神様が用いてくださることを私は信じたいです。
どうか、イエス様、あの方の側にいて、あの方があなた様の存在を体験なさいますように、と心の中で祈りながら頭を垂れました。

あの方は、
「人は、ころころ変わるものだから、気分の持ち方を他人まかせにしていてはだめよ」と言われました。
他人任せにしないで、誰にまかせるのか。
自分の心は、自分で決める。確かに選択権は、自分にある。
しかし、自分もまた、弱くころころと変わりやすい。
そんな、自分の心を支えてくださり、歩むべき道を示してくださるお方を知っていることはなんという幸いだろうか。


詩編119篇103節
「あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」


そのご婦人もご高齢になられ施設に入所されてお会いできなくなってしまいました。
今も時々思い出します。


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マラナ・タ

コロナ前の出来事でした。

ある高齢者施設のクリスマス会にお声がかかりました。

腹話術人形を連れて、教会の子どもたちと訪問しました。

讃美歌や唱歌、童謡を入所者の皆さんと歌うのです。

その時、「あのご婦人」がいらしたのです。

私だと分かったような分からないような微妙さがありました。

でも、にこにこしていらっしゃいました。