ごきげんよう!さわこです

楓の木に、生まれたばかりの楓の実。

 

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信仰の聖徒から、今朝、届いたグループラインです。

聖書と証の書からの引用とともに、大切なメッセージです。

 

神は、そのしもべを通して人間に語り、

注意や警告をお与えになり、その罪を非難なさる。

 

神は、すべての人の品性が決定される前に、

そのあやまちを正す機会をお与えになるが、

 

もしその人が正されることを拒否するならば、

神のみ力は、その人の行為の傾向を

ほかに向けるために干渉することをしない。

 

彼には同じことをくり返すことが容易なのである。

彼は、聖霊の感化に反対して心をかたくなにしている。

 

光を退け続けると、さらに強力な感化力であっても

永続的な印象を受付けなくなるのである。

 

1度、試みに負けた者は、

2度目にはさらにたやすく屈服する。

罪をくり返すたびに抵抗する力は弱まり、

目は暗くなり、確信は消え去る。

 

まかれた放縦の種はみな実を結ぶ。

神は、その収穫を妨げるために

奇跡を行うようなことはなさらない。

 

「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)。

 

神の真理に対して

神を恐れぬ不敵さと、愚かな無関心を示す者は、

彼白身がまいたものの収穫を刈り取っているのである。

(人類のあけぼの23章・エジプトの災害)

 

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罪は慣れる。

初めは抵抗のあったことも、気付けば

すっかり当たり前のことのようになっていたりする。

 

心にチクっと残っている罪悪感を

ごまかすために

深く考えないようにしたり

自分を正当化する適当な言い分を

どこかから持ってきて安心したりする。

 

ネットで都合のいい検索ワードをかければ

いくらでも自分の考えを応援してくれるし、

聖書も文脈を無視して一部分を拾えば、

何でもいいように解釈できる。

 

そのままいくと、

いつのまにかそれが確信的になり、

誰に何を忠告されても、

自分の考えは間違っていないと、

頑(がんこ)になってしまう。

そうなるとまずい。

 

自分の間違えや罪を素直に認め、

自分の行動を変えることは、

時に1番大変だったりする。

 

でも本当に謙虚で強い人は、

イエス様に助けられ、

自分の弱さを受け入れることができるはずだ。

 

そのようなチャンスは

人生の様々な分岐点においてあるはずだが、

その時に、迷うこともせず

神様の望まれない方向を選んではいけない。

 

立ち止まって祈り、

聖書の教えを確認して、

軌道修正が必要なら

そうすることは、

とても賢明なことだと思う。

 

間違っているのに

自分は正しいと思い込むほど、

見ていて痛いものはないし、

何の証にもならない。

気をつけたい。

 

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マラナ・タ

罪は、慣れるのだから、気をつけなくてはならぬ。

神は、選択の自由を与えられた。

神は、脅してご自分に服従はさせない。

神の愛は強制しないからである。