ごきげんよう!さわこです

春の野の花、ヒメウズ



箴言30.5
神の言われることばはすべて清い。
身を寄せれば、それは盾となる。

神の言われることばとは、聖書の言葉。
御言葉はイエス様そのもの。
世界のすべてを造られた神様。
すべての中の特に清いものは神に属する。
聖いお方、聖なるお方、聖そのものあられるお方、イエス様。
イエス様は大盾、小盾、岩、砦、御翼の陰
イエス様に身を寄せれば、安心。100%安全。



イエス様に私の心を守っていただかないと、私は、たちまち、自己中心性100%だ。

私たちの持つ愛は、
聖霊様によって
イエス様に覆われていなくては、

また、聖霊様によって
イエス様が私たちの内にお住みになっていなくては、
私たちの愛はいつも人間的愛の領域の内にある。
別の言葉で言うならば、自己愛だ、利己的な愛だ、自己中心的な愛だ。シミの汚れがついた愛だ。



身近な卑近的な例を上げるならば、母の愛は、我が子中心だ。いつも身贔屓してしまう。
それだけじゃない。自分のお気に入りの子をえこひいきしないではいられない。
創世記に登場する父イサクはエソウを愛し、母リベカは、ヤコブを愛した。イサクとリベカは、自分の好みに縛られた愛しか持つことができなかった。
二人きりの双子の兄弟は互いを敬愛できない人になってしまった。



ヤコブは12人の息子の父となった時、同じことをした。11番目の息子ヨセフを偏愛した。
その結果、10人の兄たちはヨセフヘの妬みが育ち弟を殺そうとするようになった。
弟アベルを殺したカインのようになるところだった。
親の偏愛は、妬みを産み殺意を育て家庭を壊す。



天上で、天使の長ルシファは神の御子イエスを妬んだ。妬みは罪の芽だ。

あらゆる人間関係のほころびは、どちらかの妬みから始まる。

人間は、我が子可愛さのあまり、偏り見ることしかできない。
(神は偏り見ないお方です)



神は人を完全に造られのに、エバは自分の目を神からサタンの化身の蛇(その蛇は美しかった。美しい声で語りかけた)に移してしまった。禁断の実を食べた。それを知ったアダムは、エバを失うくらいなら、共に死のうとその実を食べた。アダムのエバへの愛が、アダムの思考を曇らせた。
神様が完全に造られた世界に罪が侵入した。



私たち人間の愛は、不完全。
自分の愛こそ、自分の考えこそ、自分の信仰こそ、神様に良しとみなされているかのように勘違いしている。
複数の勘違いの愛が、勘違いの信仰が、勘違いの思想が、対立し戦っているのがこの世界。



だからと言って、神様の私たちへの愛が、減るのではない。十字架の贖いの故に、神は私たちを100%の愛で愛してくださっている。

それは、自己愛を承認してくださっているわけではないのです。

100%愛され100%赦されているから、私たちが100%正しいのではない。

その事を知らしめるために、神様はどれほど忍耐して涙を流しておられるのだろうか。

アダムがエバを失いたくないと思った愛をはるかに凌駕する神の愛よ。



マラナ・タ
🎵十字架のもとぞ
いとやすけき
神様の義と愛のあえるところ