ごきげんよう!さわこです

 

 

心の中で全く罪から離れなければ、生活に本当の変化は起こらないのです。
 
エソウやバラムや、イスカリオテのユダは罪の結果を嘆いても、罪そのものを嫌悪し悲しんだのではありませんでした。
 
けれども人の心が聖霊の感化に服従するのならば、良心は呼びさまされ神の清いおきてを悟るのです。

 

 

世に来てすべての人を照らすキリストのまことの光に照らされると、暗きに隠れた事柄は照らし出されて、自分は罪のある者だという思いでいっぱいになります。
 
ダビデは自分の罪の恐ろしさと魂の汚れを認めて、自分の罪をも憎んだのです。
 
こうして、神との交わりに立ち帰りたいと切望するようになるのです。

 

 

ダビデが祈ったのは、罪の赦しばかりでなく心が清められることでした。
 
本物の悔い改めは、自分の力ではできるものではありません。
天にお上りになって、人類に聖霊の賜物を与えてくださるキリストによるほかないのです。

 

 

マラナ・タ

「キリストへの道」悔い改め 
を読みながらサンセットを迎えます。
安息日のおとずれ。