ごきげんよう!さわこです

 

 

ミー・イッテンの記述が
2021.4期11月7日66頁にあると言うので、早速、確認。
実は何度も何度も確認して来ましたが忘れてしまうのです。
 
サタンは私たちの記憶を盗んで行くのでしょうか?
特に人間の脳から「神は愛である」という記憶を盗み取ろうとして、それがうまくいかない時には、記憶に上書きをしてしまおうと手ぐすね引いて狙っているのかもしれないと思ったりします。
こうしたことも個人的「大争闘」かもしれません。

 

 

さて、安息日学校聖書研究ガイドによれば、
ミーとは疑問詞の「誰が」、
イッテンとは「与える」を意味しますから、
「ミー・イッテン」とは、「誰が与えるのか」となります。
 
旧約聖書においては、「・・・の方が良かった」という時に、
慣用句として「ミー・イッテン」が用いられます。
 
申命記5.29では、主の願いに「ミー・イッテン」が使われています。
 
ほかの箇所にもミー・イッテンは使われています。
 
出エジプト記16.3    口語訳
荒野で試練に遭った時に「主の手にかかって死んでいたら良かった」と一部のイスラエルの民は言いました。
 
詩篇14.7   新共同訳
「どうかイスラエルの救いがシオンから起こるように」とダビデは願っています。
 
ヨブ記6.8 新改訳
「ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神がくださるとよいのに」とヨブは嘆いています。
 
「・・・でありますように」
「・・・だったら良かったのに」
と、いう願う思いを表すミー・イッテンが慣用句として旧約聖書にはあるということなのですね。
 
私たちは「・・・ように、祈ります」と常に「ように」を用います。
また、日常会話では「祈ります」を省略しますが、互いに祈ることが前提であると心得ています。
 
「・・・だったら良かったのに」と、
期待することは山のようにあります。
それだけ人生は厳しいのです。
人の世は理不尽なことだらけです。

 

 

申命記5.29では、モーセから十戒を聞いたイスラエルの民に対して神様がこのようにおっしゃっています。
 
「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように」(新共同訳)
 
ここでは、神様の切なる願いが「・・・ように」と、ミーイッテンで書かれています。
 
リビングバイブルの訳を見てみましょう。
「わたしの命じるとおりにすると言うが、いつもそのような心でいてくれたらどんなにうれしいだろう。そうすれば、彼らばかりか、何世代にもわたって、何の心配もなく幸せに生きられる」
 
人間は口で言っても、実行しない、実行できない弱さのあることを神様はわかっておられるので、神様は切に切に願われるのです。
神様の切なる願いが分かりやすい訳ですね。
 
神様は人間がより良く生きられる人生の条件・法則を十戒としてモーセを通してお与えになったのでした。

 

 

ガイドに書いてあることを紹介します。
 
神様が、弱さと限界を持つ人間がよく口にするミーイッテンを用いて、神様の願いを表現しておられます。これは自由意志の存在を示す実例です。
 
ここに私たちは神様がおできにならないことがあるのを見るのです。神様でさえ人間の自由意志を踏みにじることができないことが示されています。一瞬でも、神が人間の自由を踏みにじるなら、そこにはもはや人間の自由は存在しません。
 
私たちには、罪を犯す自由があるのと同じように、主を選ぶ自由、主の導きに従うことを選ぶ自由、聖霊の声に応えることによって罪から離れ、主に従うことを選ぶ自由があるのです。
最終的に、選択は私たちのもの、私たちだけのものであり、それは日々、一瞬一瞬の選択を意味するのです。

 

 

「選択の自由」の厳しさが身に迫って来ます。 
 
「自由からの逃走」という有名な書物があります。
高校三年生の時に、世界史を選択した時に副読本として読まされました。完全に忘れていますが、本の名前だけは忘れられません。
 
キリスト信仰を持つと、この選択の自由を正しく行使するためには、神を畏れる心を持って、聖霊の導きに従う心を持って、キリスト・イエスから片時も離れたくない心を持ち続けていなければ、できないことだと分かるようになりました。
 
私の意志をキリスト様に捧げることができますように。
主よ、私の自由意志の支配者となってください。
私の内に内住してください。
あなたのノックを聴き逃さない者で居り続けることができますように。
ミーイッテン!
 
神様にはおできになるが、おできにならないことが二つある。
嘘をつくこと、人間の選択の自由を強制的に奪うこと。
神の愛は強制しません。
 
だからイエス様はイスラエルのために嘆かれるのです。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」マタイ23.37
 
 
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マラナ・タ
主イエスよ、来たりませ。
御再臨は日ごとに近づいて来ます。
神様の愛である正しい裁きを待ち望みます。
この生きづらい、理不尽さに溢れる世の中にあって、私はキリスト様に抜きでは生きていけません。
主イエスよ、来たりませ。今日も私の内にお住みになってください。