ごきげんよう!さわこです
 
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フィリピ3章から今朝のデボーション。
 
主において喜ぶことは安全なことです。
神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとすることこそ、真実の信仰です。とパウロは書いています。
 
そもそもパウロはイスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人であり、旧約聖書に精通した律法の専門家。熱心なファリサイ派の一員でありました。
 
律法の義を神の霊によらず、肉である人間の霊で理解していたのです。
 
それゆえに、キリストをメシアと信じる人々の集りである教会を異端視して迫害して来ました。
 
しかし、クリスチャンたちを迫害する目的を持って邁進していたダマスコへの途上で、生ける神キリストに出会ってしまいました。
「なぜわたしを迫害するのか」と、死んだはずのイエスが言われるのです。
 
パウロが憎み迫害する人々が信じるキリスト・イエスこそ律法に記され、ヘブライ人たちが待ち望んでいたメシア救い主なのであると。
 
パウロが幼い頃から学び続けて来た律法の書に書かれていたメシアは、自分たちヘブライ人たちが十字架につけたナザレのイエスであったと、復活されたキリストご自身だと知らされたのでした。
 
急転直下、パウロは迫害する者からキリストを信じ、キリスト者たちを擁護する者に変貌しました。
 
そして、10節に
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながらとあります。
 
キリスト様の苦しみに与る!
 
この世の理不尽に苦しみながら、その苦しみから逃れようとして来た人々が、自分たちの受ける苦しみをあらかじめキリストが受けておられる、と知った時に、霊の目が開かれるのだと思いました。
というよりも、神様の恵みによって霊の目が開かされるのであって、自分の力で開くのではないのですけれども。
 
それこそが、造られた者たちが与りたいと、受けたいと、願って来た「祝福」であり「恵み」だ、と私は考えました。
 
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ところが、ある方はこのようにおっしゃいました。
「人は必然的に、神様の霊か悪霊のどちらかに支配されているものです。悪霊に支配されていても、外面的には安息日を守り、献金をし、断食や奉仕活動をして、自分の義で非の打ちどころのない生活をすることができます。
しかし、心は悪霊なので、真理が示されると怒りだすのです。」
 
なるほど、こうした考え方もあるのですね。
こういう見方で考えたことが私はありませんでした。
 
マラナ・タ
もっと聖書をていねいに読みながら、主にあって祈りつつデボーションを深めて行かなくてはなりません。