ごきげんよう!さわこです

 

 

 

世の中の◯◯主義は、聖書の慈愛深い神様の言葉を◯◯革命や〇〇思想や〇〇文化として、人間の活動の正当化に(ある時は暴力まで)利用して来ました。
 
聖霊様の導きを求めて、自我を砕いて頂いて、イエス様にある謙遜を常に求めなければ、サタンは表面的な美辞麗句的正義もどきの思想を用いて私たちを惑わします。
 
御再臨間近になるとますますサタンのこうした悪あがきが活発になりますね。
聖書の御言葉まで利用して嘘をつく。
 
image
 
あッ!それは、創世記3章、さらに福音書のイエス様が荒野でサタンの誘惑を受ける場面でのサタンの方法もそうでした。
 
御言葉の一部分をサタンは用いました。
イエス様は御言葉でサタンの欺瞞を暴きました。
 
マタイ4:6でサタンが用いた詩篇の一部は詩篇91:11,12 で確認したら、その違いが明らかになりますよ!と、バプテスマを受けて程なくの頃に牧師先生からお聞きしたことを覚えています。
 
私は、サタンは聖書をも、人を誘惑するためには利用するのだと、神をも恐れない自分が神になろうとするサタンの精神に驚きました。
 
やがて、大争闘は聖書のあちこちに出て来ることが分かるようになって来ました。
 
「大争闘の神学」抜きで聖書を読むと、人道主義・ヒューマニズムを用いて罠を仕掛けるサタンに騙されることもあるように思いました。
 
image
 
おいおい、そこまで、深読みしなくていいんじゃないの?と、
ある人からは言われるかもしれません。
幼な子のようにもっと素直にネ!って。
 
そしたら、他のある人が、鳩のように素直に蛇のように賢く、ともありますよ!って。
 
また、ほかの人は、聖書で議論をしてはなりませんよ!
 
すると、イザヤ書でしたか、論じ合おうではないか、って御言葉ありましたよネ!
 
ユダヤ人が二人集まると3つ以上の違う意見が出るって、聞いたことがあります。
 
イザヤ1:18
「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちがの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても、
羊の毛のようになることができる。
 
image
 
マラナ・タ
聖書は深いです。
一箇所からだけでなく、相反するかのように思う箇所と合わせて読むなら、聖霊様の導きも助けも豊かに与えられますね。