ごきげんよう!さわこです。
数日前に友が送ってくれた古屋良子さんのメッセージです。
繰り返し読みながら、黙想を深めています。
 
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主の召しを受け、その働きをする人は
第一に自分が救いを必要とする罪人である事、
神様の恵みによって今の自分がいる事を
知っている人です。
 
私達は神様からの一方的な恵み、
一方的な憐れみによって
信仰の道を歩ませていただいています。
 
私達がこのように自分の無力さを知って
謙った時、神様が私達を呼び出されます。
 
神様の語りかけておられるみ声を
私達はしっかり聞き取っているでしょうか…
 
「誰が我々に代わって行くだろうか」 
神様は決して強制はなさいません。
この言葉は私達の自発的な申し出を
待っておられる神様の姿を表しています。
 
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イザヤは
「私がここにおります。私を遣わして下さい」
と言っていますが、
これは「あなたのお語りになる事は何でも従わせていただきます」
という僕の姿です。
 
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自分が出来るか出来ないかではなく、
神様が命じられる事に何時でも
直ちに応じますという態度です。
 

私達はこれなら出来る、

或いは出来ないという
選り好みをしてしまいますが、
 
神様の一方的な恵みに触れる時、
私達は、自分というものがなくなります。
 
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神様の一方的な恵みによって罪が赦される経験をした者は
神様の為に何かをせずにはおられないという思いになり、
「私を遣わして下さい」と言わずにはいられないのです。
 

神様からの呼びかけに

自ら進んで応じる者を
神様は豊かに用いて下さいます。
 
神様が用いて下さるのであれば、
私達の力不足は障壁にはなりません。
 
弱く無力であるなら、
尚更神様が力を注いで下さいます。
 
大切なのは神様に信頼して
一歩踏み出す勇気と
神様に喜んで従う信仰の姿勢
なのだと思います。
 
 
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自分という小さな器を差し出し、
用いていただく中、
神様のみ業を一つでも多く体験していきたいと思います。
 
マラナ・タ
この黙想による格闘は宿題にしようと思う。