ごきげんよう!さわこです。
 
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ある信仰者からの手紙より 以下
 
この兄弟たちは、その出生と宗教教育の点では平等であった。
2人とも罪人で、神を敬い礼拝しなければならないことを認めていた。
外部から見れば、彼らの宗教は、ある点までは同じであったが、
そのさきの両者の相違は大きかった。、、
 
「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ」た(ヘブル11:4)。
 
アベルは、贖罪の大原則を理解した。
彼は自分が罪人で、彼の魂と神との間の交わりを、
罪とその刑罰である死とが妨げているのを知った。
彼は、ほふられた犠牲、すなわち、犠牲にされた生命を
たずさえてきて、彼が犯した律法の要求を認めた。
 
彼は、流された血によって、来たるべき犠牲、
 
カルバリーの十字架上のキリストの死を見た。
そして、彼は、そこでなされる贖罪を信じて、
自分が義とされ、供え物が受け入れられた証拠が与えられた。、、
 
カインはアベルと同様に、こうした真理を学んで受け入れる機会があった。
彼は、独断的決定の犠牲者ではなかった。
 
兄弟のうちの1人が受け入れられて、
他の1人が退けられるように神は定められたのではなかった。
 
アベルは、信仰と従順を選び、カインは、不信と反逆を選んだ。
万事はこの点にかかっていた。
            
         (人類のあけぼの・明暗を分けたカインとアベル)
 
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聖書の教えに自分なりの解釈や言い訳を後付けすることは、
リベラルな現代人の得意技で、それが「不信と反逆」なのだ。
 
そのような傾向のある私たちは、
この兄弟のストーリーを軽く流してはいけない。
 
「カインだって彼なりに一生懸命、自分の作った作物を捧げたのだから、
それでいいじゃないか。神様はずいぶんと細かくて厳しいね」と
 
思ってしまいそうだが、それは恐ろしく間違った思考だ。
 
彼は、神様の指示されたやり方でなく、
自分のやり方に固執ることにより、
そこに形として象徴されているイエス様の
贖いの血(人類の救済の計画)を否定したのだ。
 
神様は天地創造の記念である第七日の安息日を聖別し、
私たちにもその日を覚えるように指示された。
 
しかし十戒の中心テーマである第四条は、
なんと人間なりに適当に変更されてしまっていることだろう。
 
「同じ神様を礼拝するのだから、
聖日が土曜日だろうが日曜日だろうが何でもいいじゃないか。
そもそも土曜日は色々と用があるからあまり都合も良くないし」と、
これは明暗を分けた、カインの発想と同じだ。
 
「私」や「文化」の都合が優先される理由はどこにも無いのだ。
良き第七日安息日を、気にしなくてもよいというような。
 
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マラナ・タ
この視点を見逃してはいなかっただろうか?
私は、信仰を持った当初、全く気が付かなかった。
信仰の霊の目を神さまが開いてくださらなければ、
知性で理解できなかった。
このl視点を見逃したままだと、
カインとアベルの物語の真ん中に
贖いの子羊であるキリストの十字架はも見逃してしまう。