ごきげんよう!さわこです
実は、ごきげんではないさわこです。
 
image
 
詩篇 89編30〜34節 口語訳
 
30 もしその子孫が我がおきてを捨て、
  我がさばきに従って歩まないならば、
 
31 もし彼らが我が定めを犯し、
  我が戒めを守らないならば、
 
32 わたしは杖をもって彼らの咎を罰し、
  鞭をもって彼らの不義を罰する。
 
33 しかし、わたしは我がいつくしみを
  彼らから取り去ることなく、
  我がまことにそむくことはない。
 
34 わたしは我が契約を破ることはなく、
  我がくちびるから出た言葉を
  変えることはない。
 
セラ 小休止(ここで私の思いを綴ります)
安息日ガイド2024年1期副読本18頁には、
詩編23:4について、以下のような解説がありました。
 
  詩編23:4 新共同訳
   死の陰の谷を行くときも
   わたしは災いを恐れない。
   あなたがわたしと共にいてくださる。
   あなたの鞭、あなたの杖
   それがわたしを力づける。
「杖」は救い主が我々に与えておられる支えを指し示している。
「鞭」は、救い主の広義と強さを表している。
 義(鞭)と憐れみ(杖)は、
 その両方を結びつけることができる唯一の
 私たちの羊飼いであり、主である方の中で出会うのです。
 
image
 
讃美歌が私の唇からこぼれました。
希望の讃美歌85番
 
1、十字架のもとぞ いとやすけき
  神の義と愛の 会えるところ
  あらし吹く時の いわおの陰
  荒れ野の中なる わが隠れ家
 
2、十字架の上に われは仰ぐ
  わがため悩める 神の御子を
  たえにも尊き 神の愛よ
  底いも知られぬ 人の罪よ
 
3、十字架の陰に われは立ちて
  御顔の光を たえず求めん
  この世のものみな 消ゆるときも
  栄えに輝く 主のみ恵み
 
33節34節 この御言葉は、私を慰めます。
わが神様への信頼が回復します。
しかし、わたしは我がいつくしみを
彼らから取り去ることなく、
我がまことにそむくことはない。
 
わたしは我が契約を破ることはなく、
我がくちびるから出た言葉を
変えることはない。
 
    セラ終わり、元に戻ります。
image
 
詩篇 89篇 46〜48節
主よ、いつまでなのですか。
とこしえにお隠れになるのですか。
 
あなたの怒りはいつまで
火のように燃えるのですか。
 
主よ、人のいのちの、いかに短く、
すべての人の子を、
いかにはかなく造られたかを、
みこころにとめてください。
 
だれか生きて死を見ず、
その魂を陰府の力から
救いうるものがあるでしょうか。
 
詩篇 89 篇 50、51節
主よ、あなたのしもべが
受けるはずかしめを
みこころにとめてください。
 
主よ、あなたのもろもろの敵は
わたしをそしり、
あなたの油そそがれた者の足跡をそしります。
わたしはもろもろの民のそしりを
わたしのふところに抱いているのです。
 
image
 
セラ 私の思い 詩編89篇からのデボーション
 
あなたのしもべとは、十字架にお架かりになるイエス様のことです。
しかし、イエス様は私に代わってくださったので、「私」自身が主の僕です。
主であるイエスさまは、ご自身の民からそしりを受けました。
私は、自分の肉の家族と霊の家族とから、そしりを受けることがあります。
そのとき、イエス様のお苦しみが私の苦しみと重なります。
私は、イエス様のお苦しみにお預かりしているのです。
 
「なんと傲慢な! あなたは、イエス様と自分を同列に置くのですか!」
と叱責してくださる信仰者もいますが、信仰の色合いは、個々に違っていて、
理解できる人ばかりではないからです。
その場所で、私は孤立を体験しますが、孤独にはなりません。
何故なら、主が共にいてくださるからです。
 
 
イザヤ61:7 新共同訳
あなたたちは二倍の恥を受け
嘲りが彼らの分だと言われたから
その地で二倍のものを継ぎ
永遠の喜びを受ける
 
口語訳
あなたがたは、先に受けた恥に変えて、
二倍の賜物を受け、
はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。
それゆえ、あなたがたはその地にあって、
二倍の賜物を獲、
とこしえの喜びを得る。
 
イザヤ61:7は口語訳の方が分かりやすいですね。
しかし、常に口語訳の方が優れていると決めつけることはできません。
新共同訳の方が分かりやすいこともあるからです。
 
新共同訳の不十分な部分を改訳した「共同訳」も買いたいと思っています。
 
    セラ、小休止の私の思いはここまで。
 
詩篇 89篇52節
主はとこしえにほむべきかな。
アーメン、アーメン。
 
嘆きの詩編は常に讃美で終わります。
キリストにあって、キリストの僕である私たちの嘆きの祈りは詩編のように讃美で終わるのです。
 
image
 
マラナ・タ
信仰者が嘆く時、ある親切な信仰者が咎めることがあります。
私も体験したし、他の方が咎められている場面に遭遇したこともあります。
とがめる方は、自分のその時の信仰に自信を持っていて、叱ることが自分の役目だという信念があるからです。
信仰者は、それぞれ、異なる霊的ステージに立っていることを覚えたいと思います。
自信をもって、家族を同胞を、とがめる姿を主はどのように御覧になっておられるのか。
「よく言った、良いしもべよ」なんでしょうか。
内省することの祝福に常にあずかりたいです。
内省することなく「御言葉のひとかけら」を振り回す者であって良いのでしょうか。