ごきげんよう!さわこです。

image

 

1年前のデボーション記録を読み返す機会を得ました。

「今日の光 2022年の12月22日」の読み物から啓発されて始まったデボーション記録です。

 

以下

19世紀(1801年-1900年)にはさまざまな「イズム」(主義・主張・学説)が爆発的に流行しました。サタンは終末の時代に、思想の市場を混乱させて、真実の神の声を封じ込めようと必死です。

(今日の光2022.12.22より抜粋)

 

1年前の私のデボーションです。

これは、今の時代にまで続いています。

ヒューマニズム・マルキシズム・フェミニズム・スピリチュアリズム・・・他に何があるかしら。

 

聖書をも、これらイズムのメガネで解釈しようとする人々がいます。

聖句が浮かびました。

コリント第211:13-15

こういう者たちは偽使徒、狡賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。

だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。

だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、たいしたことではありません。

彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

 

これは、律法の専門家であるパウロの言葉です。

偽使徒たちは、信じる者たちの中に紛れ込んでいる。

新約の時代だけでなく、いつの時代にも、旧約の時代からいる。

 

呼応するように、福音書の毒麦の譬えを思いました。

 

マタイ13:24-30です。

29節30節

「主人は言った『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時『まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう』」

 

36節から42節には、この譬えの説明をイエス様がなさっています。

38節「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

39節「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は使たちである。」

40節「だから、世の終わりにもそうなるのだ。」

 

御言葉の蓄えがあるからこそ「イズム」の語句からデボーションに繋がりました。

つなげてくださる神様に感謝します。

 

以上、昨年の記録です。

以下は、今朝の、つれづれに思ったこと。

 

image

 

20世紀半ばに生まれた私は、高等教育を受けるにしたがって、周りにはマルキシストやフェニミストに感化された学生たちに出会うようになりました。

時代の先端を行くかっこいい思想のようにさえ思いました。

差別のない社会、自立した女性、既成のスタイルに縛られない関係。

語る人たちはいきいきしていました。

その波のしぶきは、私の身にも散ってきました。

 

時代の風潮とは怖いものです。

疑問を持つ前の柔らかい頭と心に「…イムズ」が入って来ることは、危険なことなのです。

 

結婚・子育てとともに複雑化する人間関係や身近な荒波の中で、かつての「小さな疑問」が首をもたげてきました。

「私、マスコミに飲まれてきたんじゃないか?」

という直感が湧いてきたのを機に大手の中央紙の購読をやめました。

評論や論説に自分の頭脳が支配されている。これって洗脳じゃないのか。

一億総白痴化という言葉を不意に思い出しました。

 

ネットで検索してもこの語彙そのものが簡単には出てきません。

死語になっているのかもしれません。

やっと見つかりました。

 

image

 

以下

一億総白痴化 ( いちおくそうはくちか ) とは、社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。

「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉である。

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 07:17 UTC 版)

 

原典

もともとは『週刊東京』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。

テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。

ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。

— 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」より

 

この『一億白痴化』の中程に「総」がつけられて広まり流行語となったのが『一億総白痴化』である。

 

東京新聞』夕刊1957年1月27日のコラム「放射線」欄で、テレビの卑俗さについて「ある人はこれを国民白痴化運動」と言ったとする記事が出た。

 

記事は「閑息亭」のペンネームで投稿されたが、筆致が大宅と似ていて、この記事が原典だと言われている。

 

朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。

 

このなかで松本清張が「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」という表現で「総」をつけた点が重要視されている。

 

評価

当時テレビの普及は始まったばかりだったため(1953年から1955年にかけて、キー各局が開局している。

テレビ1950年代を参照)、この造語によって大宅は日本の「テレビ時代の初期においてその弊害を看破した」と評されている。

 

書物を読む行為はみずから能動的に活字をひろいあげてその内容を理解する行為であり、それには文字が読めなければならないし、内容を理解するために自分の頭のなかでさまざまな想像や思考を凝らさねばならない。

 

これに対してテレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れてくる音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといったことを指摘している。

 

「一億総**」という用法に関しては、これ以前にも太平洋戦争本土決戦が差し迫った際の「一億玉砕」「進め一億火の玉だ」、敗戦後の「一億総懺悔」(当時の首相東久邇宮稔彦王)といった語もあり、大樹の陰に入り多勢に流れ易く流れに棹差す日本人の集団主義心性も表している。

 

高度経済成長以後には55年体制下安定した政治経済を背景に貧富の差の少なくなった「一億総中流」といった語も生まれた。

               

  以上、ウィキペディアの引用終わり

 

 

なるほど・・・と私の考えも湧いてきました。

 

image

以下

テレビであれ、書物であれ、自分の頭を使って識別する基準をもって関わらないと大きな声に流されて洗脳されて行くのは、日本人に限ったことではないなあと。

 

では、その識別力は如何したら身に着くのか?

 

基準となるのは何だろうか?

 

確かに戦後は、その「基準」がくずされてしまった。

しかし、私は戦前の教育を受けて来た両親たちの中で育った。

いま、振り返れば、祖父祖母、伯父伯母たちは、ひと昔前の思い出話をたくさんしてくれた。

当時の写真もたくさん残されていた。

大人たちの記憶は鮮明だった。

特に戦死した海軍軍人伯父の思い出は誰の内にも輝いていた。

 

親戚、縁者が集まる法要の後の会食の席では、江田島の海軍兵学校の集合写真や、スナップ写真が、整理されていたアルバムが何冊もあった。一人の叔父が「教育勅語」の暗誦を始めると、大人たち全員が唱和した。

そして子供や孫たちに「教育勅語」の意味を説いて聞かしてくれるのだった。

 

その記憶の上に「○○イズム」の思想が学校教育の中で上書きされて行ったのが私の世代だった。

 

image

 

マラナ・タ

私は識別するための基準を探し求める30代を過ごしてきた。

そして最終的に出会ったのが「聖書」だったのでした。