日本の文化には、キリストの福音が潜んでいる。
この気づきは、喜びと感動に満ち満ちました。
さて「無一物中無尽蔵」の禅語には
「手にしたものに執着せず、捨て去ってしまうなら心配ごとはなくなり、心に余裕が生まれ寛容になる」との意味があるそうです。
クリスチャンである私は、見るものすべて、聴くものすべてにキリスト様の実在を感じるようになっています。
この禅語も、キリストの心で読むならば、
「私が私が、私は私は」と過度に自己主張することは、自己に執着することとなります。
発達成長心理学的には「自我の確立」といって、人間の成長には必須と見なされていますが、
一方「自我」そのものには、好ましくない「自我」の側面があります。」
それ(自我)を手放しなさい。
自分を空っぽにしてごらん。
そこにキリスト様が入って来られるよ。
自己を空っぽにすることを「無一物」と言う。
自己に死ぬ、自我を手放す友言い換えられる。
自己中心から神中心になること。
すると、人は利己主義者から利他主義者へと変えられて行く。
それが、キリスト様の豊かな恵みの働きだ。
天国に持って行けるのは、その人の品性だけだ。
キリスト様は、人の心の前に立って、たたいていておられる。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声をかけて聞いて戸を開ける者があれば、わたしはその中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20)
キリスト様のノックする音、天来の声が聞こえてくる瞬間が誰にもある。
それは聖霊(みたま)の働きです。
それを聴こうとする心が反応するならば、心の扉を自分から開くことができる。
キリスト様は、強引に開けようとはなさらない。
人の自由意志を尊重なさるから。
神の愛は強制はしない。(EGホワイト「キリストへの道」より)
マラナ・タ
日本人のアイデンティティは、キリストの心に共鳴せずにはいられない。
神はすべての物をお造りになりました。
すべての国家、国民、民族は、神様の大切な作品です。