ごきげんよう!さわこです

 

 

聖書の神は、父・御子・御霊の三つにして一つである三位一体の唯一のお方であられます。
 
人類の父祖が創造主であられる神に背いたので、創造主と人は大きく深く離れてしまいました。
 
その広く深く暗い淵のような断絶に、橋をかけて、元のような親密な関係に戻すために、三位一体の唯一のお方がお執りになられた方法は、贖い主としての神のお働きを作動なさることでした。
 
それをお引き受けなさいましたのが、子なる神キリストでありました。
 
贖い主(日本語では救世主・ヘブライ語ではメシア・ギリシャ語ではキリスト)であらせられます。
 
それゆえに、キリスト様には、無尽蔵の富という言葉に言い尽くせないほどの賜物が備わっておられるのです。

 

 

禅語には「無一物中無尽蔵」という語があります。
私はかつて「茶道、茶の湯の世界観」にはキリストの心を体現しようとの試みがあると聞いたことがありました。
きっかけは三浦綾子の著書「千利休とその妻たち」であったと思います。

 

 

父から茶道のお点前には、合理的で簡素で美しい手順があるから、それを身に着けておくことは、大人の女性になるために有益である、と諭されて若い頃お茶のお稽古に行かされました。

 

 

やがてクリスチャンとなり、キリストの心を日本人の感性で理解したいと思うようになり、再びお稽古に行くようになりました。
 
お茶室には必ずと言っていいくらい禅語のお軸が掛けられておりました。
 
師匠は、その意味を語ってくれました。
すると、分かるのです。
さらにこの禅語は、聖書のあの言葉この言葉を意味しているとひらめくのです。
 
父の言うところの合理的な簡素美の奥にある真意に触れることができるようになりました。
 

 

日本の文化には、キリストの福音が潜んでいる。

この気づきは、喜びと感動に満ち満ちました。

 

さて「無一物中無尽蔵」の禅語には

「手にしたものに執着せず、捨て去ってしまうなら心配ごとはなくなり、心に余裕が生まれ寛容になる」との意味があるそうです。

クリスチャンである私は、見るものすべて、聴くものすべてにキリスト様の実在を感じるようになっています。

 

この禅語も、キリストの心で読むならば、

「私が私が、私は私は」と過度に自己主張することは、自己に執着することとなります。

発達成長心理学的には「自我の確立」といって、人間の成長には必須と見なされていますが、

一方「自我」そのものには、好ましくない「自我」の側面があります。」

 

それ(自我)を手放しなさい。

自分を空っぽにしてごらん。

そこにキリスト様が入って来られるよ。

自己を空っぽにすることを「無一物」と言う。

自己に死ぬ、自我を手放す友言い換えられる。

自己中心から神中心になること。

すると、人は利己主義者から利他主義者へと変えられて行く。

それが、キリスト様の豊かな恵みの働きだ。

天国に持って行けるのは、その人の品性だけだ。

 

 

 

キリスト様は、人の心の前に立って、たたいていておられる。

 

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声をかけて聞いて戸を開ける者があれば、わたしはその中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20)

 

キリスト様のノックする音、天来の声が聞こえてくる瞬間が誰にもある。

それは聖霊(みたま)の働きです。

それを聴こうとする心が反応するならば、心の扉を自分から開くことができる。

 

キリスト様は、強引に開けようとはなさらない。

人の自由意志を尊重なさるから。

 

神の愛は強制はしない。(EGホワイト「キリストへの道」より)

 

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マラナ・タ

日本人のアイデンティティは、キリストの心に共鳴せずにはいられない。

神はすべての物をお造りになりました。

すべての国家、国民、民族は、神様の大切な作品です。