ごきげんよう!さわこです
 
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「御言葉を通して与えられる神様との出会い、
祈りにおける神様との日々の交わりの中から、
神様との生きた交わりが生まれて来ます。」
              古屋良子さん
 
救いとは、
神様と出会い、
神様との日々の生きた交わりに
与り続けている状態を言うのだと思いました。
 
そのためには御言葉そのものであられるイエス様が不可欠です。
ヨハネによる福音書1章1〜3節
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2この言は、初めに神と共にあった。
3万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。
 
勿論、第二の聖書と言われる自然を通して、神を知ることもできます。
 
エレン・G・ホワイトの言葉より
 
キリストへの道」冒頭より「自然と啓示は、神の愛をあかしています」
 
「人類のあけぼの」第一章より
 「神は愛である」(1ヨハネ4:16)。
 「神の御性質、神の律法は愛である。それは、今までもそうであったし、これからも同じである・・・
  ・・・・・創造の力が現わされているものは、すべて、神の無限の愛の表現である。」
 
キリストの言葉を伝えてくれる人を介して神を知ることもできます。
ローマ10:17
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」
 
しかし、自分から聖書を読むことの代わりにはなりません。
 
自然や人を介しての神との出会いは、緊急事に与えられる神様からの贈り物だと思います。
 
しかし、単発的な出会いだけを喜ぶだけならば、根は生えるでしょうか。
その根は長く太く地中に伸びて広がるでしょうか。

蒔かれた種は落ちた土の状態によるのだと言う、イエス様の種まきの話を思いました。

 

このメッセージは、蒔かれた土にではなく、種をまく人=イエス様に焦点を合わせてお説教でした。ついつい、蒔かれた土(人間)の状態にばかり目が向いてしまっていたのですが、それだけであったはならない。聖書は「イエス」を証しする書であり、そのイエス(神は救いの意味のある名前)がキリスト(メシア・救世主)であることを伝える書物なのだということに改めて気づかせていただけたお説教でした)

 

イエス様との出会いから後の交わりを怠るなら、救いの実感は薄くなって行くのかもしれません。
 
イエス様は安息日の主であります。
6日間の交わりは7日目の安息日に続きます。
6日間があってこその安息日の交わりは、7日目だけの交わりとは、きっと一味も二味も違うと思います。
 
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マラナ・タ
救いとは、日々の生活の中で、
日々の祈りの時に、
日々の聖書を読む時に、
生ける神キリスト様の御臨在を体験すること。