ごきげんよう!さわこです

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「無敵の信仰」を三分の二まで読みました。

律法を呪いと書いてあることと関連して、ガラテアの信徒への手紙3章を読み返す必要性を感じました。

 

そこで、2017年3期「ガラテアの信徒の手紙における福音」のガイドを振り返り転載しました。

 

以下・・・

私たちの養育係としての律法

パウロはガラテヤ3:23において、保護する力、守る力として律法を説明しています。

24節で、彼は律法を「養育係」にたとえています。

「養育係」と訳されている言葉は「パイダゴーゴス」というギリシア語に由来します。

「教育係」「家庭教師」「保護者」などと訳している聖書もありますが、一つの言葉でその意味を十分に含めることはできません。

 

「パイダゴーゴス」とはローマ社会における奴隷で、主人の息子が6、7歳になった頃から成人するまで、彼らに対する権限を持つ立場に置かれた者のことでした。

風呂に水を汲み、食事や服を与え、危険から守ることなど、世話を託された人の肉体的必要を提供することに加え、「パイダゴーゴス」は、きちんと主人の息子を学校へ通わせ、宿題をさせる責任も負っていました。

加えて彼は、道徳的美徳を教え、実践するだけでなく、確実に少年たち自身が美徳を学び、実践するようにさせることも期待されていたのです。

 

養育係の中には、親切で、被保護者(主人の息子)から愛された人もいたに違いありませんが、古代の文献の中での彼らに関する描写は、たいてい非常に厳格な人たちです。

彼らは過酷な脅しや叱責によってばかりでなく、むちや杖でたたくことによって確実に服従させました。

 

養育係としての律法というパウロの説明は、律法の役割に対する彼の理解を一層明らかにしています。

律法が加えられたのは、罪を指摘し、指導するためでした。

この任務のまさに本質は、律法も否定的な側面を持つことを意味します。

 

それゆえに、律法は私たちを罪人として非難し、罪に定めるのです。

しかし、この「否定的な」側面でさえ、神は私たちの利益のためにお用いになります。

なぜなら、律法がもたらす有罪宣告は、私たちをキリストへと駆り立てるものだからです。

それゆえ、律法と福音は矛盾しません。

神は私たちの救いのために、両者が協力して働くように意図されたのでした。

 

「この聖句〔ガラ3:24〕の中で、聖霊は特に道徳律について、使徒〔パウロ〕を通じて語っておられる。

この律法は、私たちに罪を示し、キリストの必要を感じさせる。

そして、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰を用いることで、赦しと平安を求めて私たちを彼のもとへ逃れさせるのである」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻234ページ、英文)。

 

 あなたの行動、言葉、思いを律法と比較したのは、最近ではいつのことですか。

単に律法の字づらだけでなく、律法の精神とも、それらを今比較してみてください(マタ528、ロマ76)。

あなたはどれくらいきちんと律法を守っていますか。

あなたの答えは、この書簡におけるパウロの主張について、何を物語っていますか。

 

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マラナ・タ

律法の字面だけなら、そこにキリストを見いだすことができるだろうか?

律法主義に陥ってしまう危険がありはしないだろうか?

律法主義に陥るならば「福音」の中に命はない。

「律法」=「聖書」その中の「御言葉」は、本来は「イエス・キリスト」ご自身のはずである。

サタンは私たちクリスチャン以上に「聖書」を知っているが、そこにある神の本質の愛を嫌悪している。