ごきげんよう!さわこです

 

 

キリストは私たちのために
呪いとなって、
私たちを律法の呪いから、
贖い出してくださいました。
 
呪いの全ての重荷が彼の上に置かれた。
 
神は私たちの罪のために、
罪を知らない方を罪とされた。
 
彼を受け入れる者は誰でも、
切の罪からの自由を授かる。
そして、罪から
自由になったことによって、
呪いからも自由になる。
 
人間は罪を犯したために、
その地に呪いもたらされ、
いばらとあざみが生えたが、
万物を呪いから贖うために、
主イエスはいばらの冠を被られて、
人間と地上の両方を呪いから贖われた。
 
彼の御名を讃えよう!
 
イエス・キリストの十字架による呪いからの自由は、
地上の全ての魂にとって神の無償の賜物なのである。
 
しかし、主に感謝すべきなのは、
もはや呪いを負っていないために、
「神の義が、律法とは別に、
しかも、律法と預言者とによって
あかしされて、現された。
それはキリストを信じる信仰による神の義であって、
すべて信じる人に与えられるものである。
そこにはなんらの差別もない」(ローマ3:21-22)
 
神が我々を
呪いから贖われた目的は、
「アブラハムの受けた祝福が、
イエス・キリストにあって
異邦人に及ぶため」であった。
 
アブラハムの祝福とは
神の義のことだ。
 
神の義は、信仰によって
受け取ることができる
無償の神の賜物として、
神のみから来る。
 
つまり
キリストは私たちを
律法の呪いから
贖い出してくださった。
 
「無敵の信仰」212.213.214ページより

 

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ガラテア書3章を読みたくなりました。

律法について、24節には

「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」と書いてあります。

 

「無敵の信仰」を3分の2まで読んで、思ったこと。

著者は、読者たちを聖書全体の知識がそこそこあるということを前提に書いてあるということです。

聖書研究をある程度はやっていても、部分読みで自分勝手な憶測で理解を組み立てていると、著者の言わんとしていることを誤解してしまう可能性も出てくるということです。

誤読して、先を読まずに、この本を投げ出して、批判する人が出てくるようなことがありませんように、と祈りました。

 

マラナ・タ

聖書を読む時にもそうですが、信仰書を読む時にも、聖霊の導きを求めることは鉄則です。