ごきげんよう! さわこです

 

 

わたしはキリストと共に十字架につけられた。
 
生きているのは、もはやわたしではない。
キリストがわたしのうちに生きておられるのである。
 
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、
わたしを愛し、わたしのためにご自身ささげられた
神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
 
(ガラテア2章20節)
 
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イエス・キリストが十字架につけられたのは事実である。
彼が十字架にかかった時、我々も同じく十字架にかかったのだ。
(「無敵の信仰」207ページより)
 
 
あかし
キリスト様が、私に触れてくださった日
キリスト様が、私を包んでくださった日
私は、そのぬくもりを皮膚で体感しました。
 
私は、まだ教会に行ってはいなかった。
 
山形俊夫先生の「預言の声・聖書研究通信講座」を学び始めて7カ月目くらい。
最後の解答用紙を書き上げる寸前だったような気がする。
 
キリスト教嫌いだった私が、不思議としか言いようのない導きで、
しかも「無料」という極めて俗的な損得勘定で、切手代だけで学び始めた。
 
幾つのも「学び」に手を出していた。
お金を出して本を買い、
講習料を払ってセミナーにも参加し、
書籍やテキストを積み上げて、
夕食後、テレビなど見向きもせずに、学び、
マクロビオテックを実行していた生活。
何年続いただろうか。
しかし、「聖書」だけは、学んでいなかった。
そのことにふと気づいたとき、「文書伝道者」の訪問があった。
 
今まで、学んできたことの集大成。
その根幹が、聖書の中のキリスト様であると・・・
聖書の御言葉によって、私を包み込んだ。
 
その瞬間、キリスト様が私の霊に触れてくださった。
私の霊は眠り込んだままだったのだ。
聖霊の神様が私を導き、キリスト様が私の内に来てくださった。
 
そして、そのまま、私の町にあるセブンスデー・アドベンチストキリスト教会に駆け込んだ。
それから33年過ぎた。
 
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マラナ・タ
キリスト様が内住してくださらなければ、
生きていられない日々。