ごきげんよう!さわこです

 

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第2コリント6章1節-10節より

パウロは言う。

「わたしたちは、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。

神の恵みをいたずらに受けてはならない。と。

 

    【「いたずらに」とは、目的も理由もなく、むやみやたらに】

 

神の恵みをいたずらに受けてはならない。

   ということに敏感になりたい。

 

神の恵みには十字架が立っている。

「恵み」とは、受けるに値しない者に与えられること。

神の一方的な、犠牲のゆえに、与えられる賜物。

私たちが、受け取りたいと願うなら与えられる。

いつでも。

そう、いつでもなのだ。

ただ、悔い改めの心を主に触発された時、

心を低くして、その憐れみを受けるならば、いつでも。

 

見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。

 

神は、与えたくて与えたくてならないのですから。

神は、誰一人として滅ぶことをよしとはなさらないのですから。

 

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わたしたちは、そしりを招かないために、

どんな事にも人に躓きを与えないようにし、

ほめられても、そしられても、神の僕として在る。

わたしたちは、悪評を受けても、

慈愛と聖霊と偽りのない愛と、

真理の言葉と、神の力とによって、神の僕として在る。

 

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キリストと共にいれば、キリスとの内に在るならば、

実は、何も持たなくとも、すべての物を持っている。

 

【無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)】

茶の湯のお稽古の時のお軸の禅語が不意に思い出されました。

 

人間無一物本来の姿なのだから、

それに徹したとき、逆に一切

無限に出現する自在境地開けということ

 

そもそも、わたしたちは裸で、母の胎を出たのです。

荒野の方から吹いてきた大風に家の四隅を撃たれて、

息子たち全員が死んでしまったという知らせを受けた時、

ヨブはこう言ったのでした。

 

「わたしは裸で母の胎を出た。

また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主が取られたのだ。

主の御名はほむべきかな」ヨブ記1:20

 

サタンがヨブの全身を腫れ物で覆い悩ました時、

ヨブの苦しみを見た妻が、耐え切れない思いに駆られて

「神を呪って死になさい」と言った時にも

 

「我々は神から幸いを受けるのだから、

災いも受けるべきではないか」

と妻に答えたヨブでした。

 

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神の恵みをいたずらに受けてはならない。

神の恵みのもたらされるに至った過程を知る時、

私たちは、クリスチャンとしての招きにあずかることとなる。

 

私たちの人生は、苦しむことと無縁ではない。

その時、神を呪うのではなく、

その呪いを、「キリストの御苦しみにお与り(あずかり)する」のだという、逆転の発想がもたらされる。

 

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マラナ・タ

神のなさることは、いつも時に適って美しく、パラドックスに満ちている。