ごきげんよう!さわこです

ローマ人への手紙3章20節から31節まで



何故なら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。
そこにはなんらの差別もない。



すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。

神はこのキリスト・イエスを立てて、その血による、信仰をもって受くべき贖いの供え物とされた。

それは神の義を示すためであった。

・・・中略・・・



こうして、神みずからが義となり、さらに、イエス信じる者を義とされるのである。

(ローマ書3:20-26)



わたしたちは、こう思う。
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに異邦人の神でもある。
(ローマ書3:28、29)



まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし,また無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
(ローマ書3:30-31)



マラナ・タ

信仰による義とは、ローマ書3章20節から31節に、きちんと分かるように書いてありました。
なあんだ。
聖書の疑問は、聖書自身が答えてくれている。