ごきげんよう!さわこです
不信仰のイスラエルは、犠牲を捧げる儀式自体から義を得ようとした。
犠牲を捧げるという行為の功績から、義を得ようとしたのである。
そのため、神が生きた信仰の表現の手段として定められた儀式などのあらゆるものは曲解された。
これらのものは、その人の生活にキリストご自身の力と臨在がなければ、何の意味もないものであった。
そのために、義を受けた平安持って満足も得られなかったために、神が違う目的で定められたものを自分たちの考えに沿って歪め、さらに余計なものを加え始めた。
幾千もの慣例や厳しい要求、細かい区別の仕方などを付け加えた。
それらの全ては、義を得たいという空虚な望みのためであった。
これ以上に「死んだ形式主義」という表現が相応しいものがあるだろうか。
(無敵の信仰155.156頁より)
デボーション
安息日遵守を形式主義に陥らせてしまってはいないか?
その人の生活にキリストご自身のご臨在がなければ、安息日遵守は虚しくなってしまう。
それを埋めるために、さまざまな伝道のためという目的のために行事を計画してはいないか。
愛のご奉仕、愛の交わり、愛の実践と枕詞をつけて、納得してはいないか。
山の鉄塔が十字架に見える