ごきげんよう!さわこです

 

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「人の子に言い逆らう者は赦される。

しかし、聖霊に言い逆らう者は、

この世でも後の世でも

赦されることがない」(マタイ12:31―32)

(マルコ3:28-29、ルカ12:10)

 

今朝は、この聖句から、聖霊様についてデボーションをしていました。

 

数節先の36節37節の聖句も感じるところがありました。

 

「言っておくが、

人は自分の話したつまらない言葉についても

すべて、裁きの日には責任を問われる。

あなたは、自分の言葉によって義とされ、

また、自分の言葉によって罪あるものとされる」

 

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そして、エレン・G・ホワイトの引用文を

ある信仰者からタイムリーに頂きました。

 

「サタンは、私たちの思いを

読むことはできませんが、

行為を見、言葉を聞くことができます。

 

そして人類家族についての長年の知識から、

サタンは、私たちの品性の弱い点に

つけこんで、誘惑をしむけることができます。

 

サタンが私たちに勝利するには、どうしたらよいか、

その秘決を私たちは、サタンに

教えてしまうことがしばしばあります。

 

自分の言葉と行いを

抑制することができるようになりたいものです。

もし私たちの言葉が、さばきの日に記録を見ても

はずかしくないような言葉であったら、

私たちはどんなに強くなれることでしょう。

 

私たちは今何気なくしゃべっていますが、

神の日にはそれらの言葉が

どんなに重大に思われることでしょう。」 

 

(レビュー・アンド・ヘラルド・1913年2月27日 エレン・ホワイト)

 

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実につまらない言葉を、実に何げなくしゃべり続けている。

しまりの悪い水道の蛇口のように。

親切な言葉だと思っていてもその状況にはふさわしくない。

 

・・・英知ある人は沈黙を守る。

・・・誠実な人は事を秘めておく。

  (箴言11章12,13節)

 

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マラナ・タ

状況によって、意味が違ってくる聖句がある。

文脈から読むことができなければ、神様が意図したこととは違った解釈さえ出てくる。

神に赦されているのに、神を拒んでしまっているようなことがないだろうか?

ノウハウ本的な取り扱いをしてしまっていないだろうか?