ごきげんよう!さわこです

 

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詩編34:18口語訳です。

「主は心の砕けた者に近くいまし、たましいの悔いくずおれた者を救ってくださる」この訳が好きです。

 

新共同訳では34:19

「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」この訳も好きです。

 

私たちの周りには「救われたい」としばしば語られるクリスチャンがいないでしょうか。

 

「救われる」という言葉の定義や意味が、それぞれ違っているように感じています。

 

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バプテスマにあずかって教会員となって、自他ともにクリスチャンと呼ばれるようになって、なお、「救われたい。ほんとに私は救われているのだろうか」と言われる方がいらっしゃいますが、そのような方にこの聖句を呈示したいと思いました。

 

「あなたの心は砕けていますか?あなたのたましいは、悔いくずおれていますか?」

 

「そもそも、たましいをどう定義していますか?」

 

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「霊魂不滅論的な意味で、たましいを霊魂と考えてはいないでしょうか?

肉体と魂は死んだら離れてしまうかのように思ってはいないでしょうか。

 

魂とは、その人そのもの、その人の人格そのもの、その人の心も肉体も含んでいいます。

肉体が死んでも魂だけが生きて漂っていたり、たましいだけが天国に昇って行ったりするものではありません。

 

たましいとは、一人間を、その人そのものを指していると考えています。

一人間の総称であると。

心と同義語と言えるかもしれません。

 

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深く大きな神様から来た喜びを

「心が喜ぶ。心から喜ぶ。魂が喜ぶ、魂から喜ぶ。全身全霊で喜ぶ。」と表現できるのじゃないでしょうか。

 

語りあう時、話し合う時、使う言葉の定義が異なっていたら、違っていたら、ずれていたら、会話はかみ合わないものになってしまいます。

 

個人的に、自己の心が砕かれ、魂がくずおれることなしには、神様の差し出してくださる「悔い改め」を受けることはできないと思います。

 

悔い改めとは、神様の方を向く。神様から心身が離れていた自分に気づかされて、神様に立ち帰るということです。

 

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ルカの15章の放蕩息子の例え話では「我に返って」という言葉で表現されています。

 

この表現によると、神様から離れて生きている人は「我(私)」を見失っている。

我(私)が、本来の(私)でなくなっている。迷い出たままの我(私)である。

 

そんな被造物である人間に向かって、創造とあがないの神様は、帰って来るのを待っていてくださる。

待つだけでなく、いつも探し求めてくださる。

 

マラナ・タ

今朝のデボーションとなりました。