ごきげんよう!さわこです
マスクの話
ネットニュースで見つけた「若新さん」のコメントの一部を紹介します。
(3月16日放送・配信『SHARE』より)
マスクによって、自分が人と違う顔をしてるということについて、受け入れられなくなることが問題なんです。
僕らはそれぞれ違いを持っていて、ある程度は整形とか化粧とかできるかもしれないけど、個人差を持った存在であることをどこかで受け入れなくてはいけません。
マスクは他人と自分の違いについて一時的に棚上げしておけるかもしれません。
でも、どこまでいっても、私たちは生涯、個人差を持ち続けます。
その他人との差を向き合えない人生は、僕はつらいと思う。
というのも、自分に自信を持てるかどうかは、自分が社会的に立派になったかどうかよりも、人との違いを受け入れたかどうかに繋がっているからです。
みんなとは同じになれない、人とは違う固有の存在である。
その違いを受け止められるかどうかってかってことがすごく大事です。
違いを受け入れないまま大人になっていくと、苦しくなる。
全部隠したくなっていく。均一化しようとしていく。
他人と違うと思っていることについて、ギリギリまで隠しておこうという感覚になりかねないです。
マスクを着用する前から、多くの学校では制服や校則で、画一的な格好を求めてきた。
コロナによって、マスクの着用も強いたことから、さらに若者たちはありのままの自分と向き合う機会を奪われてしまったといえるかもしれない。
多様性が重んじられる昨今、若者たちに、人との違いを隠すのではなく、個性を受け入れ、自信を持ってもらうためにはどうしたらいいのか。
文部科学省は、新学期からの学校でのマスクの扱いについて「マスク着用を求めないことを基本」とすることを全国の教育委員会に通知した。
しかし、「マスクを求めない」よりもう一歩踏み込んで「マスクを外そう」と伝えることが、本当の意味での多様性を学び、自分を受け入れるきっかけになると、若新さんは語る。
多様性の議論が、日本では浅い議論にとどまっています。
もともと多様性という言葉には、僕たちはそれぞれ違う部分があって、わかり合えないこともあるし、同じにはなれない、という、厳しい現実と向き合うことです。
そのうえで、わかり合えなくても一緒にやるには、一つになれないけど協力するには、と共存の在り方を考えるのが多様性の議論です。
しかし、いつの間にか日本では、いろんな人がいていいけど、みんなひとつ、といった、違いや境目をなくそうという議論になってきています。
それは間違っています。
顔もまさに、「見せたくない顔の子もいるじゃん、自分の顔に自信ない子もいるじゃん。
だから『違いの境界をなくして隠しましょう』」ではなくて、
だから『向き合っていきましょう』という議論にすべきです。
多様性って言葉は、小中高生に浸透しつつありますが、間違わせちゃいけない。
一緒になれない、どこまでいっても僕らは違う。
その違いと、どう一緒に生きていくかっていうことを考えてほしい。
だからこそ、もう一度勇気を持って、マスクを外そう、人との違いに向き合おう、っていうメッセージを、大人が発するべきだと思います。
この記事を、どのカテゴリーに入れたらいいのかな。
思案したあげく「日常」にしました。
問題に出会ったら、「異常事態」に遭遇したら、逃げるのではなく、
「自分の日常」の思考の中に招き入れて、人の意見を鵜呑みにするのではなく、
マスメディアの「正義感づら」に流されてしまうのではなく、
「日常」的に、考えていく課題にしたいと思います。
マラナ・タ
そして、神を信じるクリスチャンである私は、その思いを神に向かって語る。
神様聞いてくださいよ。私、カクカクシカジカという課題を抱えています。
神様、聞いてくださってありがとうございます。
祈りとして聴いてくださってありがとうございます。
聖書の御言葉から、神様がお示しくださることを信じています。
私は、常に、キリスト様依存症です。