ごきげんよう!さわこです

 

image

 

今日から6月。水無月。

どうして雨の季節である6月が水無月(みなづき)というの?

ネットで調べてみました。

二説あるようです。

 

水無月は「水の月」という意味

水無月の「無」は、「の」にあたる連体助詞「な」であるため、「水の月」という意味になります。

今まで水の無かった田んぼに水を注ぎ入れる頃であることから、「水無月」や「水月(みなづき・すいげつ)」「水張月(みずはりづき)」と呼ばれるようになりました。

この時期の雨は稲が実を結ぶために重要なものであるため、豊作を願う人々の思いがこの呼び名に表れている、ともいわれています。

 

一方、こういう説もあります。

旧暦6月は、現在の7月頃。

いよいよ梅雨も明け、暑さの厳しい日が続く時期なのです。

そこから、水が涸れ尽きて無くなるという意味の「水無し月」が変化したものだといわれます。

 

それでは、私の6月1日のデボーション記録。

2018年から2021年まで4年分です。

 

image

 

2018年6月1日

主観的な感情を、御霊の導きと混同してしまうことはありがちです。

私たちは感情を過大評価する傾向があるからです。

 

感情は、聖霊の神様以外の霊の影響も受けるのです。

 

だから、イエスの御霊から離れていては危ないのです。

私たちはいつも、ぶどうの木であるイエス様につながり続ける枝であらねばならないのです。

 

「つねにキリストに仕えることを、今日、選びなさい。神への愛か、世への愛か。サタンと悪天使たちは人間の心に通じるあらゆる神への愛を見張っていて、魂を悪しき道に導こうとしている。」EGホワイト。

 

私たちは、見えない世界で起きていることを意識することはほとんどないのかもしれない。

サタンに見張られているなどと考えたことはあるだろうか。

 

ただ、毎日、キリストと一つでいたいと願い続けるのみ。

毎朝、キリストのまなざしの内に生かされていたいと想うのみ。

 

キリストの御霊の内にあるならば、それはキリストに仕えるということ

 

2019年6月1日

イエスは私たちといつも共にいると約束してくださいました。

私たちの戦う戦いは、なんであれ主の戦いです。

私が1人で孤憤奮闘しなくていいのです。

 

困難や試練に囲まれる時、神のもとに逃れ、救う力、解放する強さを持っておられる神からの助けを待ち望みましょう。

 

待ち疲れて心が消沈する時にも、私たちを助けてくださる神は十字架の主、創造と贖いの主である

ことを疑うことなく信じられるのは、なんと幸いなことでしょう。

 

私たちが体験する感情的な悲嘆は、喪失に対する自然で正常な苦しみです。

敵である死が如何に手ごわくても、死者は安らかに過ごしています。

 

キリストを個人的な救い主と信じる者はみな神に繋がれています。

清く聖なる者として、霊的な働き手として召し出されているのです。

 

image

 

2020年6月1日

私の身代わりとなって死なれたイエス様のお苦しみを自分のものとできますように。

 

主の霊に導かれなくては、世の人間至上主義的な人間愛では、理解することも、受け入れることも、とても難しくてできません。

 

主よ、私の心の目を朝ごとに開いてください。

私の内に働いてください。

そして、私が罪の本質を知り、義の本質を知り、その上で罪を憎み、義を愛することができる者として引き上げてください。

 

「キリストを信じる者はキリストと一つになる。神の栄光を現わすためである。」

「キリストをもっと知りたいと望み、キリストに似る者となるためである」

「そうならせたまえ」と祈らずにはいられません。

 

キリストに受け入れられるために、キリストに似た者となるために、何事かを行い励もうとして、いつの間にか、手段が目的にすり替わってしまうことに陥りませんようにと祈りました。

 

主よ、今日もあなたのいのちの泉から私の魂にあなたの生ける水が流れ込みますように。

その流れを堰き止めて、蒸発してしまう小さな溜まり水としてしまうことがありませんように。

また、堰き止められた水が流れて行かず、死海のようになってしまいませんように。

キリストの十字架を信じた者が、再びキリストを十字架につけるに等しいことになりはしないか、と気づかされ、自分の罪のしたたかさに、身が慄えました。

 

世の霊は、私の中のかつての価値観や感覚を刺激して、私の内に入り込もうとチャンスを狙っています。

 

どうかあなた様の恵みを管理するにふさわしい忠実な執事として、自分に与えられた機会を最大限に用いることができますように。

私の経験してきたすべてが、あなた様を深く知り、あなた様との深い交わりとなりますように。

 

image

 

2021年6月1日

エレミヤの言う「新しい契約」とは、シナイ山で神がイスラエルと結ばれた「古い契約」と異なるのではなく、神の民イスラエルによって破られたために、神ご自身が、「更新」してくださった「契約」なのです。

 

更新された新しい契約とは、「わたしはわたしの律法を、彼らの中に置き、彼らの心に書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と、あるとおりです。

 

神はインマニエル(主我らと共にいます)なる神様であり、内住されるキリストであり、御国を受け継ぐための保証として聖霊で証印を押される(エフェソ1:13,14)神であられるのです。

 

罪から離れ、神に贖われるとは、神のものになるとはこういうことです。

 

神様との関係を表す信仰が、表面的な口先ばかりのものであるなら、神の契約を破り続けたイスラエルと同じではないでしょうか。

 

神が預言者エレミヤを通して予告された「新しい契約」は南ユダ王国が終わりを告げ、民がバビロン捕囚として連れて行かれようとした時代のことでした。

 

神は、わたしが主であることを知る心」をお与えになります。

神は、「石の心を除き肉の心」をお与え合えになります。

「新しい心」と「新しい霊」を与えられます。

 

神は私たちの心に働いてくださいます。

その神の御業を受け入れる者は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、「残りの者・残りの民」なのです。

 

image

 

厄介な問題があります。

聖書を根拠とする揺るがない教理というしっかりした土台を持ちながら、肉的なクリスチャンがいるという事です。

妬みや争いの心を宗教的なオブラートで包みながら行動するのです。

 

他者や自己を欺くことができても、神様を欺くことはできません。

しかし、御再臨の時には明らかにされるのです。

イエス様に会えるのを喜べず、隠れ回る自分に愕然とするのかもしれません。

 

image

 

キリストがおられたのは、生活の中心ではなく、戸口の外です。

恩恵期間がとじる前に気づくようにと神様は願っておられるのです。

 

肉の人が霊の人に変わることは可能です。

教会に留まっている限り、気付き変えられるチャンスがあります。

「救いは個人、信仰の成長は教会生活」というお話を聞いたことを思いました。

 

「肉的か霊的か」という聖書的な区別によれば、皆、霊的な棚卸しを迫られるのです。

これはすべてのクリスチャンに当てはまります。

 

キリストの言葉によれば、私たちとキリストの個人的なので関係は、私たちと聖霊の関係によると言われています。

 

聖霊の導きに自分をゆだねられない人は、キリストから「わたしは知らない」と言われてしまうのです。

 

image

 

マラナ・タ

「・・・キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(ローマ8:8.9)

聖霊を通してのみ、キリストとの真の関係を持つことができるのです。