ごきげんよう!さわこです
安息日は、
神様の創造的権威の永遠の象徴として、
神様の律法の中心に組み込まれている。
天地創造と安息日と裁きは、
神の摂理によって密接に結びついている。
「この世界と、その中にある万物とを造った神は・・・
1人の人からあらゆる民族を造り出して、
地の全面に住まわせたのですから(使徒17:24,26)
人類は皆一つの家族の一員であり、
お互いを尊重し、感謝し、優しさ、礼儀、
思いやりをもって接することにつながります。
安息日は、
私たちが創造主である神を信じ、
人間の命を大切にすることを実践的に
表現するものであるのです。
人間の命は、
創造主から与えられた
大切な贈り物であるため神聖なものであり、
私たちの安息日礼拝は、
この永遠の真理を証しするものであります。
神の裁きがある事実は、
人間が道徳的な選択肢・自由意志があるということを意味するのです。
もし、私たちが
単なる進化の結果に過ぎないとしたら、
自由意志の本当の根拠はない。
もし、すべてが遺伝や環境によって決定されるのであれば、
私たちは本当の選択の自由・自由意志を働かすことはできない。
自由意志は、
神様から私たち一人一人に与えられた贈り物なのですから。
もし、自由意志をなくしてしまったら、
善悪を判断する方法がなくなる。
もし、神の裁きがあるとすれば、
その裁きの根拠となる律法がなければならない。
ヤコブの手紙2:13 には
「自由をもたらす律法によって、いずれは裁かれる者として語り、またふるまいなさい」とあり、
神様の終末の裁きの根拠となる十戒の律法を自由をもたらす律法と書いてある。
また、ヨハネ8の32には「真理はあなたがたに自由を得させる」とある。
真理とはキリストである。
人間は神に屈服することで、自分自身を回復できます。
律法も真理もキリストそのものであるのですから、
私たちはキリストにゆだねることで真の自由を経験し、
神への服従は喜びとなるのです。
私たちが神の戒めに従うのは、
救われるためではなく、神様の恵みによって救われ、
すべての行いにおいて神様に喜んで頂きたいと願うようになるからです。
神様は決して、
私たちの意志を強制も強要もなさらない。
圧力も用いられない。
神の御霊の影響下にあって、
人は誰に仕えるかを自由に選ぶことができる。
魂がキリストに屈服する時に
行われる変化の中に、
最高の意味の自由がある。
サタンから解放されたいと願うことは、
罪から解放されたいと願うことである。
この切なる魂の激しい願いに、
天来の聖霊の力が吹き込まれる。
こうして人間の能力は、
神の御命令としての戒めに従うようになり、
神の御心が人間のうちに成就されるのです。
安息日学校聖書研究ガイド2023年2期8課より
マラナ・タ
神様の終末の裁きの根拠となる十戒の律法は、
自由をもたらす律法である。