ごきげんよう!さわこです。

 

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ジョイス・マイヤ著

「思考とのいう名の戦場」

第10章混乱した心より

 

ヤコブの手紙1:5-8は

迷い・疑い・混乱を克服することからの必要性を教えています。

二つの心を持った人とは、つまり、二つの相反する思いを持った人と書かれています。

心がいつも行ったり来たりの繰り返しで、心が迷い、疑いと混乱が押し寄せて、確信を持つことや決断することができなくなるのです。

 

マタイ16.8には、

信仰の薄い人たち、なぜ論じ合っているのですか。

 

何故?と思うことの真相を探る時、人は論理的に考えようとします。

しかし、論理的に細かく考えていると、複雑な状況や詳細までを頭で理解しようとして、理屈に合わないと感じた場合には、拒絶してしまう場合があります。

 

サタンは、私たちが論理的に考えるように仕向けることで、神様の思いが私たちの人生に実現することを妨げます。

 

神様の思いは、必ずしも、私たちが頭で納得できるようなことばかりではありません。

犠牲や不快感を伴うようなことであったらどうですか。

(※そこで、犠牲や不快感があるから、神様の思いに違いないという早とちりもしてはだめです)

 

コリント第一12.14には

生まれながらの人は、神の霊が教えてくれる神の思いを理解することも、受け入れることもできない。

自分のうちに神の霊をもらっている人だけが、神様思いを理解できるからだと書いてあります。

 

頭で考えることと、霊に従うことの違いを理解したいと思いませんか。

 

いかに私たちは自分の考えや思いに左右されやすく、理屈を並べてしまいがちでしょうか。

 

私たちの自己中心的な心は、生まれながらの人に属しているのです。

理屈で理解できることならば、神様からのものだと信じたい傾向があるのではないでしょうか。

 

しかし、神の霊に従うことを知り始めた人の霊は、理屈では語れない理由を受け入れるようになっていきます

 

ヤコブの手紙1.22には

聞くだけでなく、聞いたことに従い、実行することを忘れてはならないと書いています。

 

聖書を読んで、それに従いたくない、とても従えない、と思うならば、それは私たちの理性が関係しているかもしれません。

 

人間的な理性が働くことで、神様の真理とは真逆のことをあたかも真理であるように思い込んでしまうのです。

 

※思い込みは憶測であり確信ではありません。もちろん信仰でもありません。

(エレン・ホワイトの書物には、このようにしばしば書いてあります)

 

聖書が教えることのすべてを頭で理解しようとしても時間の無駄です。

 

たとえ、私にとって良いアイデアだと思わなくても、神様は私が神様に従う方を選択することを願っておられるのです。

 

神様が聖書を通して、また、自分の内なる人を通して語りかける時、私たちは理屈を並べたり、議論したり、頭で理解できるかどうか試したりする必要はありません。

 

それは、私たちの役目ではないのです。

 

※私たちの役目でないことに、つい、手をだしてしまうということは、よくあることです。

聖書の一部分を、脈絡もなく取り出して、人に意見をしたりすることなどをしてはいないでしょうか?

 

ある人は、神様の御意志だと考えて周囲の人を巻き込んで、とある人のポジションを奪うということがありました。しかし、何年も経過してから、神様の御意志でも御計画でもなかったことが明らかになりました)

 

人間の理性ではなく、神様を信頼しましょう。

 

箴言3.5には、

心を尽くして主に拠り頼め。知性を尽くして主に信頼せよ。自分の悟り・理解力に頼るなと書いてあります。

 

※私は、ここを読みながら、フランス革命に起きたことを思い出しました。

聖書を捨て聖書を燃やして、神の位置に人間の理性を据えました。

その結果はどうなりましたか。

神を信じる者たちを迫害をし残虐の限りを尽くしました。

 

以下はエレン・ホワイト著「各時代の大争闘第15章 ”聖書とフランス革命” からの引用です。

 

「フランスは、宇宙の創造主に対して公然と反逆の手をあげた国として公式の記録が残っている世界でただ一つの国である。英国、ドイツ、スペインその他の国にも、多くの神を汚す者、多くの無神論者があらわれたし、これからも現れるであろう。しかし、フランスは議会の決議によって無神論を宣言し、主との住民全体と他の地域の大群衆とが、男も女もその宣言を喜び、歌い踊ったという、世界史上唯一の国である」   以上、引用終わり

 

※さらに、私は、今、世界中で一部思想家たちと、それに追従する人々によって新たな法律がつくられようとしていることも思いました。

LGBTイデオロギーの問題です。

各国の良心的な人々は、声をあげて反対しています。

 

特にクリスチャンたちは、創世記1:27を根拠に反対しています。

「神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)

 

クリスチャンでなくても「神」を信じる人々は(イスラム教信者や日本では神道を信仰している人々等々)この法案に反対しています。

 

先日見つけた動画を貼っておきます。参考になると思います。

最後までお読みくださいましたら、ご視聴ください。

 

 

さて、

ジョイス・マイヤーさんの本に戻ります。

 

理性で判断することに頼っていては、神様の真理が見えなくなり、心に混乱を招きます。

 

理性で判断することと混乱することは、ワンセットなのです。

 

神は秩序の神ですが、神の秩序は人間の考える理性と同質ではありません。

 

理解で判断することに頼ることの危険性の一つは、

頭で納得するような理屈はいくらでも作り出せるからです。

 

※「屁理屈に対して、下手な考え休むに似たりだよ」と親や祖父母から聞いたことはありませんか?

 私の子ども時代の信頼する大人たちから聞いた印象深い言葉です。

「自分で考えるのは良いことだ。しかし、その考えが正しいかどうかまで考えなくてはね。悪いことを考えていたら、考える人の魂が汚れてしまう。悪いことの方が魅力的に感じるようになってしまうからね」

これは、ノンクリスチャンであった祖父の言葉です。

日本には、クリスチャンでなくても、本物のクリスチャンのような人物が多くいました。

 

マラナ・タ

まだまだ続きますが、ひとまずペンを置きます。

※しるしは、ジョイスさんの本に書いてあることではなく触発された私の文章です。