ごきげんよう!さわこです

 

 

オズワルド・チェンバーズ「限りなき主の栄光を求めて
5月3日「いのちが通うとりなし」を読みながら、衝撃を受けました。
 
自分のこと以外のために祈ることが執り成しの祈りになるのだと、私は短絡的に考えていました。

 

 

①神を心から信頼していなければ、力ある執り成しの祈りは不可能である。
 
②私たちの個人的な同情や先入観は神との絆を弱める原因となる。
 
③神と一体になっていなければ、執り成しは成り立たない。
 
④自分自身への同情と他者への同情か高じて「そのようなことが起きてたまるものか」と私たちが思ってしまう瞬間、私たちと神との生きた関係は切れてしまう。
 
要点を書き出してみましたが、結論は、
「人々に対する神の御関心を共有していること無しには、生きた執り成しの祈りとはなり得ない」と、チェンバーズは言っていると思いました。

 

 

深く反省を込めて読まずにはいられませんでした。
 
神様との真摯な関係性の構築を求めることもしないままに、人間的な感情的な同情心と願望を根拠として祈ることを執り成しの祈りであるかのように決め込んでいました

チェンバーズは、新たな深い視点からの気づきを与えてくれます。

 

 

マラナ・タ
「神の御名の栄えを表すために、神に最高の要求をする時に、神は喜ばれる」(各時代の希望)

 

これこそが執り成しの祈りとなっていくのでないかと。

EGホワイトからのお返事をもらったように思いました。