ごきげんよう! さわこです

 

 
この花に実がなりました。
三月に咲き始めた花たち。
 
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私に賜物はあるのだろうか?と自信が持てなかったりする人がいます。
 
また、一方では、霊によらず肉の思いを神からの賜物だと思い込んでしまっている人もいます。
 
しかし、何が賜物なのかは、神様が知っておられるとペトロは書いてあります。
 
1ペトロの手紙4:10.11 
 
あなたがたはそれぞれ、
賜物を授かっているのですから、
神のさまざまな恵みの善い管理者として、
その賜物を生かして互いに支えなさい。
 
語る者は、
神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。
奉仕する人は、
神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。
 
それはすべてのことにおいて、
イエス・キリストを通して、
神が栄光をお受けにもなるためです。
 
栄光と力とが、
世々限りなく神にありますように、アーメン。

 

 

神様がしもべにくださった賜物があります。
それが何かは分からないかもしれませんが、
神様は授けておられることは間違いなく確かです。
 
「あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのですから」とペトロは書いています。
 
私がしたいこと、思いついたこと、衝動的なひらめき、それらと、神様からの賜物が一致するとは限りません。

 

 

先ずは、私の執着を取り去ってください。
神様の思いはすぐには分からない事が多いのですから、すぐに自分の得意なことを賜物だと思い込んでしまう軽率さを取り去ってくださいと祈りました。
 
私の執着心や願望を神様の御前に差し出します。
私の熱心は、キリスト様が私の内に住んでくださることだけです。
 
 

クサイチゴに実がなった時、セントウソウに花が咲きました。

 

 

日々、御言葉の交わりと祈りの内に、
安息日ごとの礼拝による神の家族との交わりの中で、いつしか神様が示してくださっていることに取り組み始めていることに気づくようになりました。

 

 

御言葉から祈りました。
 
「神様のさまざまな恵みの管理者とならせてください。
良き管理者として育ててください。
そして、その賜物を生かすべく機会をお与えください」
 
 
「賜物を生かす働きを、
自己実現のためにと
私の自我が横取りしてしまうことがないように、
私を見張っていてください」と祈りました。
 
「神様の家族のために
隣人のために、
互いに仕え合うことで、
愛し合うことのあかしとなりますように」
と祈りました。
 
そして「神様の栄光となりますように」と祈りました。
 
さらに
「語る機会が与えられました時には、神さまの言葉を語るにふさわしく語る者とならせてください」
と祈りました。
 
セントウソウのとなりに、コオニタビラコも咲いていました。

 

 

「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」
この御言葉には、驚きと安堵がありました。
 
「神がお与えになった力に応じて」と書いてあるではありませんか!
 
力以上のことをしようと力み過ぎてはいないか?
人々からの称賛を期待してはいないか?
 
またはその反対で、
努力することを放棄して、
楽することを正当化してはいないか?
 
自己吟味をするように、
自分に都合よく主の御言葉を解釈することのないようにね、
と神様からのさりげない譴責が伝わって来ました。
 
「力に応じて」との言葉の内にある神様の御心が伝わって来ました。
 

 

 

神様を見上げないで、
人を見て競争心を燃やしたり、
自己卑下してしまったり、
そういうサタンの惑わしに
私たちは簡単に足を掬われてしまうことを
神様はご存知なのだと思いました。
 
神様が与えてくださっている力以上をしようとすること、
また、力以下で済ましてしまおうと怠けること、
そのどちらでもなく、
神がお与えになった力に応じて行うことができるように、いたしますから、させてください。助けてください。
私が自己顕示欲と自己憐憫のサタンの広げた罠にかかってしまうことのないようにお守りください。
と祈りました。
 
私の存在と為すすべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神様が栄光をお受けしますようにお導きください。
と祈りました。

 

 

マラナ・タ
聖書の書簡類からは、信徒が弟子と育って行くことができるように、何をどう祈るかを、ペトロ・パウロ・ヤコブたち、先見者たちが教えてくれています。神様、今朝もありがとうございました。