ごきげんよう!さわこです。
「取り違えた聖書の読み方」というシリーズを書こうかと思います。
私の恥さらし的な打ち明け話になってしまうかもしれませんが。
タイトルは「クリスチャンの打ち明け話」シリーズがいいかなあ。
この鳥の名前を知りたくて大きくアップしてしまいました。
俯瞰(ふかん)する、という言葉を思いました。
「鳥瞰」(ちょうかん)とも言いますね。
貧しさは経済上の不忠実に起因しているとマラキ書3章には書かれています。
そこだけに注目して聖書を読むならば、
経済的に満たされている者は、神に忠実であることの証明であり、
人の目には、どこが神に忠実なんだ?と思っても、
いやいや隠れた信仰と神への忠実と隣人愛に溢れているに違いない。
と、いうふうに思ってしまうことはないでしょうか。
私はそう思った時代がありました。
また、自己否定しなさい。
他者を自分より優れているとみなしなさい。
と書いてあるのを読むと、
意見が違えば、
間違っているのは常に私であるのだから、
どんな時にも他者を正しいと尊敬しなさい、
と読んでしまいました。
自分の意見を言うのは高慢だと思ってしまいました。
聖書の一部だけを拡大解釈して読んでしまうと、
こんなことに陥るんですね。
サタンは人よりも聖書を知っており、
聖書を利用して人の目を曇らせることを知るまでは、
このトリックに引っかかってしまい苦しみました。
このトリックに引っかかって、乗っかって、
「私はクリスチャンになって謙遜になりました」という人もいました。
大争闘神学を知らないと、
サタンが実在することを受け止めないと、
いやはや勘違いさせようとする
サタンの手のひらで転がされて、
誤った謙遜もどきに引きずられますね。
どれだけ、私は、病んでいたのでしょうね。
「くりすちゃんになって病気になった人がいるから用心しなさい」と、
バプテスマを受ける前に忠告してくれた人がいました。
その方は、そういう実例を知っていらしたのです。
それで、キリスト教を信じることはしなかったらしい。
頭の良い、いろんなことを知っているバイリンガルでした。
結論
聖書を学ぶには、聖霊の神様の導きと聖霊に満たされた人の助言は大切ですね。
マラナ・タ
聖書を誤読させるのがサタンの仕事です。
「サタンについて話すと、人に恐怖心を持たせるから、話すのはやめた方がいいですよ」というお勧めをする人もいます。