ごきげんよう!さわこです。

20年前、2003年にキリスト教新聞社から発行されたこの本。

当時カナダに住んでいらした信仰の大先輩から送られてきた。

 

この本を20年後の今、再読している。

あちこちに赤いラインが入っている。

ここで、私は納得したんだ。

と20年前の信仰理解をなぞりながら読み返している。

 

 

日本人アイデンティティを頑丈に持って生きてきた私は(それが普通だと持っていたが、かなり無意識の領域だった)神様の不思議な導きで、聖書の神様を信じさせられて、1990年秋バプテスマ。

 

セブンスデー・アドベンチスト教団から出されていた山形俊夫先生の「預言の声聖書通信講座」を学んでいるうちに、キリストさまの実在に触れて、瞬時に聖書の神様を信じさせられてしまった。

それで、地図を調べてSDA教会に1人で出向いて行ったのが1889年の秋。

 

信じたのではなく、信じさせられたという奇妙な表現を使ったのは、訳がある。

 

私はカトリック幼稚園育ちだったけれども、その幼稚園でキリスト教の本質を教えられたことはない。

 

中学・高校時代に、世界史でキリスト教国家の世界的な狼藉の数々を知った。

キリスト教信者が世界の人口の三分の一に当たるとか、どんな有名で立派な人たちがクリスチャンだとか知っても、感動しなかった。

 

だって「中世の暗黒時代・宗教戦争・大航海時代・植民地主義政策」を知ったのだもの。白人のキリスト教列強諸国が、世界の大半を支配してきたその結果じゃないか、と思っていたのだもの。

 

白人以外は人間とは認めない。動物だ。と考えた白人キリスト教徒たち。

聖書の神様はそんなことを教えたのだとしたら、美辞麗句の聖句の一部を知っても、納得できようか。

 

英文学部への進学が文科系希望の高校生がほとんどだった時代。

私は、キリスト教への反発の表れとして、国文学部を選んだ。

 

世界史の教科書から、そんなことを考えるの?

サワコちゃんは変わり者よ。

 

ビートルズやプレスリーや、御三家のアイドルではなく、広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」に憧れる私は、「変わり者」のレッテルを張られてしまった。

 

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「福音の解体新書
日本人に分かりやすい聖書のグッドニュース」
このネーミングが何と素晴らしいではないか。
 
日本人であることを恥じて、西欧文明や西欧由来の物が優れていると、一も二もなく信じている人にとっては、「日本人にわかりやすく」聖書を読み解いてもらう必要性などないであろう。
かつて、私の同級生で「植民地になっていたら、太平洋戦争で負けることも原爆を落とされることもなく、英語がぺっらぺらで、混血美人になっていたのよ。残念だわ」という人がいた。
そういう人にとっては、「日本人に分かりやすく学ぶ」必要はないかもしれない。
西欧人の宗教の方が正しかったから戦争に勝ったのでキリスト教を信じたという人にも出会ったこともある。
 
人の思いはそれぞれで、信じる入り口もまた、それぞれだと考えるように私も変わってきたので、熱く怒ったりはしない。
 
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今朝の太陽です。
大日如来とも
義の太陽キリストとも、
人はそれぞれの宗教背景で、太陽に愛着を持っている。
寒空の下、太陽のおかげで洗濯物は気持ちよく乾く。

さて、一部を紹介します。

 

すべての人はアダムにあって有罪と死の宣告を受けたのだが、すべての人はキリストにあって義とされて命にあずかっている。(福音の解体新書53頁)

 
個人として選択の余地がない事柄に関しては、神は、私たち個々には責任をお問いにならない。ただ、キリストにある永遠の命という贈り物を個人的に、意識的に、故意に、執拗に、最後まで拒んだ場合に限って、神はその人に罪の責任をお問いになり、第2の死がその人にもたらされるのである。(福音の解体新書54頁)
 
「アダムにあって」全人類に及んだのは、第2の死であった。今でも全人類はこの死に属している。けれども、実はキリストにあって、人類すべてが永遠の死から永遠に命に移っているのだ。(福音の解体新書54頁)
 
聖書が述べているところを飛び越えてしまわないように十分に気をつける必要がある。(福音の解体新書54頁)
 
神は罪の問題の解決策として律法をお与えになったのではなく、罪が明らかになるためにこそ、お与えになったのある。
確かに罪は、アダムの堕罪によって掛け算式に増え広がったにもかかわらず、キリストにある神の恵みはさらに力強く満ち溢れた。それだからこそグッドニュースと言えるのだ。(福音の解体新書の55頁)
 
マラナ・タ
聖書を正しく読もう。
聖書への偏見も、
キリスト教への偏見も
神ご自身が取り去って下さる。