ごきげんよう! さわこです。
同じことを聞いても、人によって反応が違うのは当たり前かもしれない。
この世のことに関しては、多分に関心度の違いによるのだろうと思う。
しかし、神の国に関するメッセージになると、
関心度の違いとはまた違ってくるように思います。
「聞く人の霊性」とでもいうのでしょうか?
私の疑問に対して答えとなる文書を見つけました。
エレン・ホワイト著
各時代の希望24章「この人は大工の子ではないか」より抜粋
エリシャの時代に、
イスラエルのハンセン病人たちが見過ごされたのも
同じ理由からであった。
しかし異教国の貴族ナアマンは、
正義の信念に忠実であって、
助けが非常に必要であることを感じていた。
彼は、神の恩恵の賜物を受ける状態にあった。
彼は、その病からきよめられたばかりでなく、
真の神を知る特権に恵まれた。
神の前におけるわれわれの立場は、
われわれが受けた光の量によって決まるのではなくて、
われわれが持っているものをどう用いるかによって決まるのである。
だからたとえ異教徒であっても、
認めることができるかぎり正しいことをえらぶ時、
彼らは、大きな光を与えられて、
神に仕えると公言しながらその光を軽視し、
その日常生活が告白と矛盾しているような人たちよりも、
好ましい状態にあるのである。
古代イスラエルの人々は「選民」だと奢っていた。
現代のあるクリスチャンたちは、「天国行の切符」を手にしていると、思い込んでいる。
クリスチャンになったのは、地上人生と、天国での永遠の命と、両方を手に入れるためなのだろうか。
地上のご利益と、永遠のご利益と、宗教は両方を与えてくれる便利なパスポートなのだろうか?
マラナ・タ
キリスト信仰に与るのは、自分の家族のご利益のためであるのではない。